【書評】米原謙『山川均――マルキシズム臭くないマルキストに――』

 本書はミネルヴァ書房の「ミネルヴァ日本評伝選」シリーズの一冊であり、社会主義者であった山川均(1880-1958)の幼少期から晩年に至るまでを仔細に叙述した伝記である。筆者が山川の名を知ったのは、大杉栄(1885-1923)というアナルコ・サンディカリストを調べていた頃である。山川は大杉と同時代人であり、思想的立場は違えど、ともに日本の社会運動の発展を語る上で欠かせない人物である。山川は共産主義の方針を巡って福本和夫(1894-1983)と対立したことはよく知られているが(福本イズム)、それ以前には大杉とも対立していたのである(アナ・ボル論争)。この件については後述するが、このようにサンディカリズムや共産党とも距離を取った山川は、様々な紆余曲折を経て、戦後には労農派マルクス主義に基づく社会党左派の理論的支柱と目されるようになった。大杉によれば、山川は当初、大杉と同じようにアナーキストのバクーニンの影響を受けていたようであるが、山川は晩年に至るまでマルクス主義での範疇での思想的変遷を繰り返している。筆者は既成政党についてはだいぶ懐疑的に見ているのだが、著者の米原氏は、初期どころか幼少期から遡ってその思想的変遷を辿って、山川の現在の思想史的意義を問い直そうとしている。筆者はここでそれを批評していく。
 本書は山川が生まれ育った岡山県の倉敷についての記述から始まる。それは、伝記の形式であるからには当たり前の記述であるが、ここでは措く。米原氏は、これまでの山川に関する評伝が山川の社会主義やマルクス主義の理解・実践に傾き、幼少期や同志社時代のことが充分に検討されていないことに不満を漏らす。大杉の場合、筆者の見る範囲ではあるが、大杉がかつて軍人を目指し、陸軍幼年学校に通っていたこともあって、幼少期についてだいぶ言及される印象があるのとは対称的であるように思われる。それもあり米原氏は、山川の『自伝』の記述の紹介に終始するに留まらず、歴史学的な方法に依拠して、山川の幼少期を記述していく。山川は先述の通り社会主義者として知られているが、幼少期に同志社に通っていたこともあり、マルクス主義者となって以後も著書ではしばしば聖書から文章を引用したりする。つまり、山川にはキリスト教体験の影響が後年に至るまで残っていたということである。これは、今から見れば奇妙なことのように思えるが、当時はキリスト教こそが最先端の思潮と思われていた。本書にもあるように日本の草創期の社会主義においては、安部磯雄や片山潜などほとんどがキリスト教徒であった。大杉も一時期、海老名弾正の本郷教会に通うぐらいである。このように、社会主義者の間でもキリスト教徒が多くいたのであるが、米原氏は山川の同志社でのキリスト教体験について詳細に辿る価値があると考える。
 米原氏は、同志社時代の山川について、様々な資料を用いて記述しているが、なかでも同志社退学の経緯について詳しく触れている。山川は、同志社を設立した新島襄(1843-90)を崇拝していたが、学校の運営方針が変更したのを機に、新たに設立された尋常中学校に編入されることになった。そこではカリキュラムが変更され、内容としては、体操という科目が課せられ、教育勅語に基づく倫理の授業が設けられたことである。また、新島先生記念日が廃止され、それが同志社創立記念日と合併された。これらのことに山川や他の生徒は不満を持っていたようである。だが以上は、山川の『自伝』で言及されていたことである。それのみを鵜呑みにする訳にはいかない。米原氏は、他の様々な史料にあたって、以上のような不満は退学の遠因であるに過ぎず、直接の原因は他にあるとする。米原氏によれば、不満のあった改革を実施した教員が学内対立によって辞職したことに同情して抗議したことが退学の原因であった。これならば、山川は『自伝』には書けないであろう。同志社を退学し、「無免許のクリスチャン」と後にこの時期を形容することになる山川は、キリスト教徒が当時の皇太子の結婚という「大慶事」を歓迎していることを揶揄したという廉で投獄されるという不敬事件を起こすことになるが、米原氏は、いずれの場合も、政治的・思想的なものではなく、道徳的なものが動機であるとし、後の社会主義を連想するものではないことを強調している。筆者もこの点に異論はない。この時期の山川にマルクスの思考もなければ、経済学の教養もない。米原氏が言うように、山川が経済学に着手するのは、獄中においてである。大杉でさえ、自身のアナキズム観を確立するのは獄中においてであった。
 次に触れるのは、ロシア革命についての評価である。ロシア革命は、革命勃発当初から山川に限らず社会主義者にとって、非常に重大な意味を持っていたことは言うまでもない。レーニンによるボルシェヴィキ革命ということになるが、米原氏による本書を読む限り、山川はロシア革命の意義を巡って右往左往しているように見える。米原氏によれば、山川はプロレタリア独裁が民主主義と背反しないといったレーニンの説明にやや懐疑的でありながら、社会主義実現のためには現実的必要として独裁が必要であるとした。だが、その一方で、カール・カウツキー(1854-1938)を対置して、両者を見較べながら検討する。カウツキーは、晩年のマルクスやエンゲルスと交流があり、当時の影響力のあるマルクス主義の理論家であったが、レーニンとは理論的な面で対立関係にあった。カウツキーの主張を簡単に言うと次のようになる。カウツキーは、ロシア革命をブルジョア民主主義とし、資本主義化やプロレタリアートが充分に成熟しないままでのプロレタリア独裁では、ロシアの社会主義は早く崩壊すると考えている。
 カウツキーのロシア革命はブルジョア民主主義という規定は理解できなくもない。史的唯物論では、言うまでもないが、社会構成は、アジア的、古代的、封建的、近代的、共産制という具合に発展する。ただ発展するにしても、前の社会構成が充分に成熟し臨界点に達していなければならない。ロシアの場合、1917年の二月革命によってニコライ二世が皇帝から退位し、ロシア帝国は消滅。代って、自由主義者や穏健的左派が加わった臨時政府が成立し、近代化を本格化させようとした。だが、第一次世界大戦の状況下、ボルシェヴィキ主導のソビエトの力を頼らなければならず、同年の十月革命において、臨時政府はソビエトによって解体される。つまりは、近代社会が成熟しないままに共産制が成立したということになる。日本では、戦前に明治維新はブルジョア革命か否かという解釈の違いで、マルクス主義は、労農派と講座派とに分かれた(山川は労農派)が、それも、近代制が成熟していないと困るからである。ゆえに、カウツキーは当時のロシアの状況から、ロシア革命をブルジョア民主主義と規定したものと思われる。
 山川は、レーニンとカウツキーを見較べるのだが、米原氏によれば、山川はカウツキーの批判をマルクスの立場からの最高の批評としつつも、かつて主張したマルクス主義の階級論や唯物史観を棄て、ブルジョア民主主義の擁護者になってしまったと批判し、結局はレーニンを支持し、ロシア革命の現実を受け入れることになった。米原氏は、その後の山川のロシア革命観にも触れている。①1930年前後の山川について、米原氏は、ロシア革命を熱烈に支持したかつての姿はなく、ソビエト・ロシアの状況から、プロレタリア以外の反資本主義の契機の存在を認めなければ、権力掌握後にプロレタリアが革命に協力した他の階層を抑圧することになると考えたからだとした。②1937年に人民戦線事件で逮捕された際に特高第一課に提出された『手記』において、山川はロシアの共産主義は特殊な事情の下で作られたものであると強調し、コミンテルンがロシア革命とその成果のソ連を擁護すること自体に意義があるとしつつも、画一的に各国の革命に介入した点で、創立自体が一つの根本的誤謬だったと記したと米原氏は書いている。米原氏は、当初の山川のロシア革命観にやや首を傾げるような書きぶりをしていたが、筆者からすれば、山川の革命観の変化はあまりにも遅いと言わざるをえない。大杉の場合も、初めは革命の意義を大いに認めたものの、アナーキストの立場ゆえではあるが、革命後にこれまで協力していたはずのアナーキストが虐殺され、ウクライナ問題が浮上するに及び、瞬く間に批判に転じている。これに較べれば、山川の対応は非常に遅いのである。
 以前に別の所で福本イズムについて少し触れたが、これは山川と対立したことなので、ここでより詳しく言及する。ロシア革命への評価やその他諸々の事柄を巡って大杉と対立することになった(アナ・ボル論争)のだが、やがて山川イズムと呼ばれることになる諸論文(例えば、「無産階級運動の方向転換」等々、1922年)が発表されるや、社会主義運動の主流がボルシェヴィズムとなり、大杉のようなアナルコ・サンディカリズムは衰退する。だが、この数年後に、西欧帰りの福本が当時の最先端の理論を記した諸論文(例えば、「山川氏の方向転換論の転換より始めざるべからず」等々、1926年)を発表し、山川をも含む従来の『資本論』研究者を批判し、その理論は先の通り福本イズムと呼ばれ一世風靡する。その福本イズムもコミンテルンの批判もあり、わずか数年で影響力を失うことになったが、まずは福本の理論について大まかなところを触れていきたい。
 福本の理論について言えば、山川との対立で俎上に載ったのは前衛党(共産党)の組織論のほうであるが、その組織論は、労働者の階級意識は、労使間の闘争からは生じえず、前衛党による指導とイデオロギーの注入が必要であり、課題は労働者を革命家にすることであって、労働者大衆に迎合することではないというものである。つまり、労働者は元々プロレタリアートの自覚がなく、前衛党を確立してそこから労働者を革命家に仕立てるために理論を注入しなければならないというものである。そこから福本は、山川の「方向転換」論における政党組織は労働組合の延長に過ぎないと批判した。
 ここで山川の「方向転換」論について大まかに述べる。米原氏によれば、「方向転換」論は、当時のコミンテルンの方針転換を受けて書かれたものであるが、それによれば、まず第一歩として、資本主義の精神的支配下にある一般大衆から思想的に純化する。つまりは、大衆から少数である我々が遊離して思想的に前衛化することである。そして、機が熟せば、純化した思想を携えた少数の前衛化した我々が再び大衆のなかに入るべきだというものである。この際に懸念されるのが、その純化が大衆のなかにあって改良主義化しないかというものだが、山川は、大衆の要求に応じた運動を通じて最後の目標に進ませるように努力すべきと言っている。結局は、少数者が信念を持ち続けろということである。その後、一斉検挙事件や関東大震災の余波もあったのだが、一度共産党を解党し、前衛的な組織ではなく、大衆的な運動体を求め、すべての無産階級分子を糾合しようとする。そこで福本による上記の批判が出たのであるが、だが福本にはこれまでに実践運動の経験がない。また、マルクスのように英仏独に渡り歩いたと言えど、福本の場合、単なる研究員としてである。福本の理論は、米原氏がことさら言うまでもなく、現実に裏打ちされていない観念論であると言わなければならない。
 筆者は山川の理論について、福本と同様にエリート主義的であると言わなければならない。山川の理論において、労働者が前面に出ているように思われるかも知れないが、実際には主導権は前衛的な少数者にある。ここで、アナ・ボル論争において山川と対立した大杉の主張について触れてみてもよさそうである。大杉は先から言及している通り、アナルコ・サンディカリストであるが、大杉が思想的な拠点を置くサンディカリズムの理論としてよく知られるのがジョルジュ・ソレル(1847-1922)の『暴力論』(1908年)である。が、大杉は理論としてのサンディカリズムを信じているのではない。サンディカリズムは組合主義とも言われるが、大杉は労働者のエネルギーのみを信じるだけである。理論は後づけに過ぎない。筆者は心情的には大杉の構え方を最も支持する。大杉から山川、山川から福本へと、社会主義運動は年を重ねる毎にエリート主義や観念論的な傾向が強まっているように見える。
 本書は戦後の山川についても言及している。山川が一斉検挙事件後に共産党を解党し、大衆的な運動体を求めるようになったと先に記したが、それは戦後に日本社会党として結実する。米原氏は山川の思想的立場について「日本型社会民主主義」と規定しているが、それは最終的にマルクス主義から離れ、議会を通じた社会主義の実現を目指す西欧型社会民主主義とも異なり、マルクスの革命概念を持ちながら、コミンテルンや共産党とは一線を画するものである。米原氏によれば、その山川の立場は、1924年頃に樹立され、試行錯誤を経る。そして、その「日本型社会民主主義」の結実が、戦後の日本社会党であるように思われる。だが、注意しなければならないのは、山川がすべての無産階級分子を糾合する志向があることであり、日本社会党はそのように見なければならない。事実、日本社会党は右派と左派とに分かれていた。山川の思想的立場である「日本型社会民主主義」を担ったのは左派のほうであり、右派は議会を通じた西欧型社会民主主義を模範としている。
 山川は戦後の日本社会党において、左派の理論的支柱となったのであるが、この頃の山川のロシア革命観、ソ連観は、先にも述べたことではあるが、当初のものからだいぶ変わっている。米原氏によれば、当初批判したカウツキーの立場に近くなっていた。これは言うまでもなく、長年の試行錯誤の結果である。戦後の山川は、ソ連の脅威を認識するようになっていた。それは、山川が掲げる非武装中立論にも現れる。その内容は、非武装中立論という語とだいぶかけ離れていたのである。これらのことから、ソ連に肩入れする向坂逸郎(1897-1985)とソ連観の相違で対立することになる。本書を読む限り、向坂の思考はだいぶ否定的に語られているように見える。
 米原氏は晩年の山川の社会主義世界の未来に対する観測の甘さを見逃していない。それは、1956年に行われたソ連共産党第一書記フルシチョフによるスターリン批判とソ連軍によるハンガリーの非スターリン化の反政府運動への介入についてである。この二つの事件について少し補足すると、前者はスターリン時代の悪弊を暴露したことであり、これにより、ソ連の衛星国に対する政策が根本から改められると思われたが、ソ連軍によるハンガリー事件によって裏切られることになる。米原氏も言うように、この二つの事件は、全世界の社会主義者に再考を迫ることになる。日本の例を言えば、ハンガリー事件後に日本共産党と日本社会党とが、ソ連の判断を追認する。この判断に日本共産党の反対派、特に青年や学生の部分が抗議し、追放されたり絶縁するに至り、様々な政治団体が結成されることになる。これらは新左翼と呼ばれるようになり、1960年代の政治闘争において、主要な層となっていった。
 このように、社会主義者にとって重大な二つの事件となった訳であるが、米原氏によれば、二つの事件についての山川の見解は次のようなものである。山川がソ連の社会主義について批判的な見方をしていたのはすでに述べたことであるが、フルシチョフによるスターリン批判を受けて、山川は理論的には当然のことと述べた。米原氏は、これが甘い観測につながったとしている。ハンガリー事件については、ソ連の軍事介入は、社会主義国家というよりは、力の対立における軍事国家としての判断と結論づけた。米原氏は、これを戦後の社会主義世界を全否定するに等しい見解としている。とはいえ、山川がソ連に社会主義が実在していることを否定しない。山川は、非スターリン化はより根底から進行すべきと考え、それがさらに進行することは、西欧圏にとってはソ連の崩壊であるとしつつ、国際社会主義の観点からは、社会主義世界の一歩前進であるとした。米原氏は、山川のこの期待をあまりに楽天的な観測であるとしている。そして、山川の期待する根本的な再編成が、実際には社会主義体制そのものの崩壊を意味するのではないかと疑問に思っている。そして米原氏は次のように言う。「山川の思考の延長線上に、わたしはマルクス主義的社会主義の否定と西欧型社会民主主義を予測せざるをえない。」
 筆者は、山川のソ連観については何も異論はない。ソ連の実態を把握するのがあまりに遅過ぎるとしても。民主主義が成熟していないロシアで共産主義が成立したのが特殊の事情によるものであるとするなら、山川にとっての民主主義が、社会主義世界が成立するための重要な何かであると思えなくもない。非スターリン化への期待が社会主義世界の未来に対する楽天的な観測であるように思われそうだが、資本主義世界の限界が見えず、民主主義が成熟途上であるとするなら、社会主義世界はまだ訪れていないように思われる。山川が将来の社会主義世界の到来についてどのような観測を持っていたかは計り知れないが、上記の米原氏の言葉は、あまりにも皮相的な観測であると言わざるをえない。突飛に思われるかも知れないが、筆者は、社会民主主義自体が、近代的制度の一部であると思えてならない。
 なお本書には「東アジアの「山川主義」――侵略戦争に抗して」と題された章があるが、これは主に戦前・戦中の中国・台湾における山川の影響を記したものである。ここでは詳しい内容を省くが、山川の幼少期や同志社時代に詳しく触れたことに並んで本書の特色を示す一章となっている。
(ミネルヴァ書房、2019年7月刊)

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