Takuma Ishikawa

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最近の記事

考え事

マルクスが植民地では、農民は農業だけに専念する事は不可能で、建築ほか様々なタスクをこなさなければならず、その能力を持っている。そのマルチタスク性の条件によって、雇用者と被雇用者の依存性が自然なものではなくなり、雇用者は危機となり絶対的な権力を欲するようになると指摘していた。 そのしわ寄せが奴隷にいき、かつ南北戦争からの奴隷解放後、いくつかの産業や技術が衰退していったことにもつながるだろう。 それはともかく、分業性・専業性とマルチタスク性(分業制の対義語がなんなのか、思いつ

    • リベラルの矛盾がどんどん肥大しているようにも思われる。

      環境問題に関しての政府に対する不満を書いている人はとても多いけれど、環境問題の対策に政府が本気で乗り出した時に、自分たちの生活の変化などについて主体的に考えている人はどれほどいるんだろうか。原発の問題を当事者として考えている人はどれほどいるんだろうか。 コロナ禍の制限に対しても、いろいろ複雑な痛みが伴っているが、環境問題においてもそういう問題は当然起こってくる。自動機械的に政府のせいばかりにして、実際ジレンマが生じる現実に直面したら、自分の矛盾した怒りを理解することなく、繰り

      • 息苦しい時代

        調子が悪い時にネットでいやなもんみると、本当に人間が嫌いになる。 暴言も吐きそうになるから本当に怖い。

        • 自分はデータをドリブンなどできるのか。

          よく言うように社会orビジネスは今やビッグデータだという。 データを解析し、ドリブンせよと。 しかし、僕ぐらいの活動レベルだと、データを取るにしても本当に少ないので、役に立つものだと思えない。 それは僕のような小さな存在とは別世界の話に過ぎないのではないか。 データに影響されるというのは大きくある。パソコンや、スマホを開くたび、常に自分がマーケティングされている感じはする。しかし、自分が主体的に活用するのは、どのように可能なのか。 もちろんデータ解析を全く見ていないわけではな

          カフカの断片から

          以前ここで、説教と交渉の同一性について書いた。 ”説教とは、それが本当は交渉であるということを、相手に気がつかれてはいけない交渉である。 交渉とは、それが本当は説教であるということを、相手に気がつかれてはいけない説教である。” 一方カフカは、告白と嘘の同一性を指摘する。ありのままを相手に伝えることの不可能性から、告白は不可避的に嘘になると。そのペシミスティックな考え方から、合唱のなかにはじめて、ある種の真実が横たわっているかもしれないと飛躍的な予感で閉じられるアフォリズムだ

          カフカの断片から

          変化と気分

          質問:私の気分はいままでと変わってないのか。 返答:変わっていない。 質問:それでも私は変わったと言えるのか。 返答:明らかに変わっている。 質問:でも私の気分は同じままなのか。 返答:ほとんど同じだ。 質問:私はこれからも変わっていくんだろう。 返答:ああ、変わっていく。 質問:にもかかわらず私の気分はずっとこのままか。 返答:そうだ。

          変化と気分

          試みが身体化するまで

           年齢を重ねていく上で、いろんな新しいことに挑戦するのだけれど、それが大きな形で達成されない細々としたものがほとんどである。ブログを始める、〇〇を習慣づける、新しい画材に挑戦する、外で食べたラーメンは全てメモるなど。  僕なんかは何でも屋なので、そういう経験の蓄積が重要であることに、気がつくようになった。それが自分の引き出しになるのだ。  で、そういうものが「仕事」の糧、肥やしになるのには、ある程度の技術が身体化している必要がある。わかりやすい例でいうと、部活やお稽古があるだ

          試みが身体化するまで

          従うこと

          A: 驚いているが、私はあなたたちのアドバイスの通りにしたがって、選択してきた。それだけだ。 B: 私たちはそんなことを言った覚えない。それは誤解だ。 A: いや、あなたたちは確かにそう言ったけれど。 B: 言ったかも知れないがそれは誤読だ。あなたがしたいようにそれはねじ曲げて解釈したのだ。 A: 私はむしろあなたたちが言ったことを字義通りに従ってみたのだ。この実行したことに驚いたにすぎないんだろう。 B: それがダメなんだ。 A: あなたたちは私にアドバイスした

          ツイートのルールを設定する

          テレビの視聴に対して、子供にはルールを設けるのだから、大人もSNSにはルールを設けた方がいいというのは、ある時期からなんとなく考えてきた。 スマートフォンのツイッターはアンインストール済みであるが、自分のSNS依存のたくましさは、なかなかなので、それでは十分ではない。 そのため、ツイッターでの投稿について、基本的な時間帯を明確にしてみるのはいいかもしれない。今想定しているのは、だいたい一日で三つの時間帯(昼、夕方、夜)を設け、その時間に思いついた内容を呟く。ただし、1日3回

          ツイートのルールを設定する

          信じさせることと欺すことの違いとは?

          私の物語は読む人を欺すためにある と 私の物語は読む人に信じてもらうためにある とわざわざいう時にあらわれる作品の違いとはなにか。

          信じさせることと欺すことの違いとは?

          待ち時間

          自分の仕事は終わったがそれが自分の手を離れながらも公開されるまでにはまだ少し時間がかかるという、この「待つ時間」とは一体なんだろう。待っているような、待ってもいないような。 それを考えると疲れてしまうので、もうその仕事のことは忘れてしまおうと思わせるくらいの間の時間。実際お蔵入りしてしまうプロジェクトもあるわけだけど。

          まにうけないでください。

          人間の心理は複雑だからかもしれないが、コミュニケーション上で相手との相性を考えると、以下のようなことがあるように思う。 私の言うことを、彼・彼女はまに受けないということ。私の話を適度に軽んじてくれる、適度に同意しないでいてくれることということ。だからその相手とは、心を許して話をすることができると。 人は信じて欲しいから、相手に話しているのだが、同時に相手がさほど信じないでいてくれるから話をできるということもある。自分が信じているものが、必ずしも自分が好き好んでるものとは限

          まにうけないでください。

          飽きることについて。

          見飽きる、食べ飽きる、聞き飽きる。それぞれ飽きているわけだけど、実際的にそこで起こっている現象はどのくらい共通したもので、どのくらい個別的な特性があるものだといえるだろうか。

          飽きることについて。

          頭が働かないのなら、身体も動かない。その時身体は、理屈に勝利して、すでに答えを知っている。

          オンラインのコミュニケーションに疲れてしまった感がある。今年度はオンラインでたくさん授業や講座をしたので、もうなんかそれをしたいという気持ちが弱まっている。またポリティカルなものがどんどん腫れ物になってギスギスする中で、ポリティカル疲れも正直出てきている。 多分誰かが仲間に加わってくれればいろいろなことが動くが、人間的なトラブルが生じるリスクを今は背負いたくないから、依頼はできても、協働してくれる人を探すのは、及び腰になっている。人間関係は難しい。 しかし、そうも言ってられな

          頭が働かないのなら、身体も動かない。その時身体は、理屈に勝利して、すでに答えを知っている。

          メモ

          僕がまだいなかった頃の母の姿を僕は見ることができるのに、母がいなくなってからの僕の姿を母は見ることができない。

          まだ実現してないアイデアは、他人に認められないもの。

          何か新しいプロジェクトのアイデアを思いつき、頭がそれに囚われ、友人にその話をすると、だいたいその友人は、アイデアに警戒する、話に少しウンザリするなどが普通だ。つまり少しネガティヴか、冷めた反応が返ってくる。ウンザリされるのは、思いついたアイデアのモチベーションとは、実に素朴な欲望と楽観的な解釈によっているからなのだ。それは他人から見れば表層的ではしたないものに見えるのである。 若い頃は相手のそのリアクションと自分の熱量の温度差に傷つくことがあったが、いまはむしろ少しネガティ

          まだ実現してないアイデアは、他人に認められないもの。