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積読本物語(1)-牧太郎『新聞記者で死にたい』は、時代を映す、読みごたえ満点のサラリーマン履歴書だった!

積読トホホ

本を買って、そのままなん年も放置する。その魅惑の行為を、ひとは「積読」と呼ぶ。そして、ひとは言う、つぎからつぎへと読みたい本が出る。買う、溜まる、積む、足蹴にする、そして、いつの間にか部分破損する…。わたしは、明確に記憶するかぎり、小学3年生から本を読んでいる。洗礼は司馬遼太郎だった。それこそ、最初に読んだのは『項羽と劉邦』だったはずだ。爾来35年間ほど、活字中毒を患い、読めないほど本を買い込んでは、ちまちまと読み捨てている(だいたい年間100冊くらい)。そんななかでも、下手をすると10年以上、読まずに転居を共にする本たちも現れる。読まないんなら紙屑だ、というムキもあろう。だが、わたしは大阪人、ケチなのだ。読まないなんてもったいない! また、買ったということは、過去のわたしの琴線というか興味に触れたはずだ…。ということで、ホコリの溜まった積読本を、このnoteで紹介しようと思い立った。前口上はこれぐらいにして、本日の1冊はこれである。

今回の積読本

牧太郎『新聞記者で死にたい』(1998、中公新書)

個人と時代が映すバブル前後

本書が刷られたのは1998年4月。いまから23年前である。まだニューヨークにWTCが屹立し、リーマンショックも喰らっておらず、東日本大震災も起きていない。だだ、バブル景気は弾けてしまっている、そんな背景だ。

主人公である著者は元々新聞記者で、本書を出版した直前まで週刊誌(サンデー毎日)の編集長を務めていた。しかし、年の瀬のある祝宴で、倒れる-働きすぎ、不摂生に起因する脳卒中である。本書は、脳卒中からのリハビリと社会復帰を縦糸に、駆け出しからの新聞記者の日々、キワドイ週刊誌のネタ(毎日新聞所属なのにテレ朝のワイドショーにも出演していた笑)、そして自分の出生の謎と、新書とは思えない展開で綴られる、圧巻の回顧録になっている。読み終えたわたしの感想は「タイトル変えたほうがええんちゃうか」でした笑

とくに、わたしにとって印象的だったのは、著者はかなり早い段階でオウム真理教の取材を敢行しており、ネタモトだったのが坂本堤弁護士であった、という点である。地下鉄サリン事件を遡ること6年前のこと。事件の匂いを嗅ぐ鋭い感覚と、紙面で事実を伝えようとする使命感に、ブンヤ魂を感じる。わたしとしては、時代の1ページを開いたようで、感慨深かった(受験生でしたよ、わたし…)。

ガムシャラに働くとはどういうことだったのか

2021年現在、コロナウイルスの痛恨の一撃を受け、根強く残る「昭和的な働き方」はさすがに終わりを迎えることだろう。もはや「長く働くことが当たり前」という感覚はなくなりつつある。むしろ、今日もそうなのだが、少なくとも週に数度は在宅勤務が普通になってきている。その前提に立つと、本書で描かれるガムシャラに働くモーレツサラリーマンは色褪せた「過去の時代」だ。しかし、著者は、マスコミという仕事柄もあろうが、多彩な人脈(元国会議員秘書、演歌歌手、作家等)を培っており、リハビリを経た障害者となっても、職場以外で様々な仕事を見つけてくる。そういう意味では、会社以外の人間関係が老後に重要だと言われる現在を先取りしている。ガムシャラはガムシャラでも、視野の広いリーマンだったわけだ。たとえば、もし病に倒れ、障害が残ったら、わたしはどうするのだろう、と考える一助にはなるかな。

余談ですが、本書で、同じく脳卒中を患いながらもリハビリで回復され、ノンフィクションライターとしてバリバリ働いている姿を描写されている大塚公子さんの本も、実は積読してます。意外なとこのでつながる笑 これも積読本の醍醐味なのかも。

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