見出し画像

積読本物語(2)ーフレデリック・ベグベデ『¥999』は、現実と妄想が倒錯した、禍々しい私小説だった!

今回の積読本

フレデリック・ベグベデ『¥999』(2002、角川書店)

書いてはいけないことを書く、それは文学なのだろうか?

読み終わって、本書の問いかけるテーマを考える。タブー。あるいはシステム。そこに、ミレニアルの退廃的な雰囲気が重なり、ザラザラとした感情が励起される。とにかく、マネー、ドラッグ、セックスである。主人公のオクターヴは広告マン。コカインをやり、娼婦を買い漁っては、斜に構えてCM制作に携わる。仕事は嫌い、妊娠した恋人を「責任持ちたくない」と捨て、捨てたことを病んで情緒不安定になる。まあ、端的に言うと「クズ男」である。しかし、である。我々はオクターヴに対して、胸を張って「このクズ男が!」と言い放てるのだろうか? オクターヴは悪いことをやる、一般的にタブー視される行為をすべてやる(唯一、汚職だけは外れるかも)。でも、我々が住まうシステム内で、それら行為は絶えることなく繰り返されている。この矛盾。書いてはいけない。でも、書く。その「書く」という意思は本書を文学たらしめているのだろうか?

システム1に依拠する欲望をシステム2で制御することは可能か?

本書はそれこそ一世を風靡したダニー・ボイル監督『トレインスポッティング』を彷彿とさせるジャンキー小説だが、唯一文学的な香りの漂うのは、主人公を含む登場人物たちがCM撮影で訪れるマイアミで、脈絡なく殺人を犯すシーンだ。彼らは、浮かれて、酔って、ラリって、理性を消失し、高級住宅街のとある大豪邸に上がり込む。そして、そこに住む老女を虫ケラみたいに殺す。理由は「老女が不労所得で暮らす金持ちのアメリカ人だから」。この理由、聞いたことがある。そう、ドフトエフスキー『罪と罰』である。ドストエフスキーは本能を司るシステム1に関連する殺人を実行するために、「共産主義」という観念の刺激で、理性を司るシステム2を乗り越えた。だが、オクターヴたちは、「マネー、ドラッグ、セックス」でシステム1を極大化し、システム2を骨抜きにした。つまり、人間の証明として語られるシステム2は敗れ去り、システム1の支配する獣道に、我々は投げ出されてしまったのかもしれない。本書の後半、延々と夢ともウツツともつかない、幻惑された脳内世界の描写が延々つづくのだが、もはや語りのなかでもシステム2は完全に崩壊している。そりゃあ、アメリカの大統領が欲にまみれた不動産王になるってもんだ。

余談

主人公のオクターヴは、本書中で「本作を執筆している」というフラクタルな構造を呈しているのだが、著者のベグベデ自身も本書が出版されたのちに、勤めていた広告代理店を辞めているらしい。また、冒頭、コカインをやるオクターヴは鼻の骨が溶ける懸念を抱くのだが、アイルランドのロックバンド、シン・リジーのフィル・ライノットはコカインのやりすぎで鼻に穴が空いたため、あの独特のかすれ声が出たというトリビアを思い出した。まあ、あまり救いのない話にはちがいないですが…。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?