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私はギリシャラブの信徒。

※これは2023年5月25日に書いたものです。

ギリシャラブの新曲「ABCD」がリリースされた。
とてもいいタイトル。感想はまた改めて。

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明後日、私は初めてギリシャラブに会いに行く。
初めて、生の音で、彼らの演奏を聴ける。

ギリシャラブ。
こんなにも長いこと聴き続けているバンドは
私の中でまだ存在しない。

たぶん、ライブを経験する前と後で、
私の世界は大きく変わると思う。
いま見えている世界が変わってしまう前に、
ギリシャラブに対する思いを
できるだけ記録しておきたい。

そして、ライブから帰ってきて、
別の自分になった状態で、
このnoteを読み返したいと思う。

思えば、ライブ・レポートというものは世の中にたくさん存在するが、ライブ前・レポートというものはあまり見たことがない。今回の記事は、まあその実験のようなものだと思ってくれればよい。

以下、連想形式で自由に書きすすめる。

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✳︎
ギリシャラブがどのくらい好きなのか。
それは、ずぼらな私が彼らのバンドTシャツだけ、必ずおしゃれ着用洗剤で洗って平干しにするくらい好きである。

ギリシャラブを知ってから何年が経つのだろう。思えば、小学生が中学生になるくらいの年月はゆうに超えているらしい。なが〜いおつきあいである。

✳︎
ギリシャラブの東京進出と入れ替わるようにして、私は関西にやってきた。

関東や中部に行く可能性もあったが、あえて故郷から程遠い場所を選んだ。関西弁が飛び交う異国の地にやってきた理由の一つには、ギリシャラブが京都を拠点にしていたことがある。(私は飛行機を使わなければライブに行けないくらい、遠い街に住んでいた)

ライブにはもちろん行きたい。
ただ、それよりも大事なことがあった。
ギリシャラブが生きている
“いまの”京都を歩いてみたかったのだ。
文学作品の舞台を訪ねるように、
音楽が生み出された空気を感じたかった。

亡き人の著作ばかり読んでいる私にとって、同時代を生きることはそれだけで興奮することである。まして彼らが住んでいた場所のすぐそばで生活するなんて。なんて贅沢なことなんだ。

私は「迷え悟るな」のMVに映っていたような、
広い公園の空の下に行ってみたかった。
MVでメンバーが座っていたように、
青く広がる芝生の上に座ってみたかった。

✳︎
一度、勇気をだしてインスタライブにコメントしたことがある。
「このまえ、京都のバーでギリシャラブが流れていましたよ!」と。
すると天川さんがソファにもたれながら、
「京都のバーはセンスがいいからね……」
と気怠げに微笑んだ。
その画は今でも、鮮明に覚えている。

関西に来た後、私は体調を崩していて
なかなかライブに行けなかった。
そして、突如コロナ禍に突入した。
地元で第一波をくらった私は、
関西に帰ることがむずかしくなった。
当時京都で予約していたライブも、
行けなくなってしまった。

ライブにたどり着くまでに、
様々な紆余曲折があった。

もともと暗くて狭いところが苦手であり、ライブハウスという空間に近寄り難かったことも、一因としてあったような気がする。そんな腰の重い自分を動かしたくれたのは、ひとえに彼らが音楽制作を続けてくれているおかげである。ギリシャラブよ、存在してくれてありがとう。

そんなこんなで明後日19時、
私はようやく邂逅を遂げる。

✳︎
いままで、個人的な体験談を書き連ねてきた。

ここらで僭越ながら、
彼らの音楽について少し紹介したい。

ギリシャラブは、現存するアーティストたちの中で、
最も美に耽溺し、悦楽に微笑んでいるといえる。
人々が世に言う「耽美」とはこのことなのだろう。

…いや、やはり前言撤回。「耽美」とひとくちにいえども、そこには様々な趣味嗜好・界隈がある。簡潔に、ひとことで何を表現するというのは、やはり難しい。

では、どう彼らのことを伝えるべきか…。ありふれた言葉であるが、端的に言えばギリシャラブは天才である。歌詞、音楽、声、メンバー、ジャケット……過去から現在まで「ギリシャラブ」を構成する全てが天才である。

その作品は美しく、香気に満ちている。ここで他の芸術家を引き合いに出すのは間違っているのかもしれないが、彼らには詩人・大手拓次と同じくらい、薔薇がよく似合うと思う。大いに咲いて大いに乱れ、ゆっくりと饐えて、枯れてゆく。盛りの姿も、退廃する姿も、その過程全てが一つの芸術だ。幾重もある薔薇の花びらが見頃を過ぎて開き、ぽたぽたと散りゆく刹那を捉えたような美しさである。

✳︎
「つつじの蜜」
恐らく、初めて聞いた曲。
歌詞をみればお分かりになると思うが、初めて聞きいた時、当時の私の頭の中は、疑問符でいっぱいになった。しかし、詩人の描写はとてもリアルに感じられた。現実と虚構の交錯が不思議ながらもとても心地いい。

「迷え悟るな」
私をギリシャラブに引きずり込んだ曲。
ふわふわとした歌声と、不謹慎で素敵な歌詞。でもそのなかに、確かな愛を感じた。私は当時買ったばかりのスマホで、広い芝生でゆらゆらと動く青年の姿を見ながら、その世界観に次第に引き込まれていった。

「からだだけの愛」
初めてギリシャラブを聴く人に必ずすすめている曲。歌詞が素晴らしい。「猿は猿でも 美しい猿さ」という表現に、とてもギリシャラブらしさを感じる。そう、そういう"ギリシャラブらしさ"がよく出ている曲のひとつだと思う。

「モデラート・カンタービレ」
石畳、細い路地、その上を少年の魂が駆けていく……そんなヨーロッパの小説を思わせる。日本語とバンドの旋律で、こんなにも物語の空気を再現できる人間が、かつて世の中に居ただろうか。いるならば誰か教えてくれ。そう声高に言いたくなるほど素晴らしい作品だ。このバンドが唯一無二である理由の一つだと思っている。

「機械」
MVが秀逸。歌詞も秀逸。「おたまじゃくしは生まれる前泳ぐ」を歌詞にはめこむなんて、どこで思いついたのだろう。「る」の美しいループも注目ポイントだろう。「猫のヒゲみたいな君の肋骨をなぞるだけの機械にな~るるるるる~るるる~」と、これが永遠に続くのではないかと思うほどにループする。話は変わるが、肋骨という部位の儚さが好きだ。後ろに二つの肺が隠れていて、苦しくなると上下に激しく動く。曲線的で、よく折れたり、ヒビがはったりする脆さもよい。私も肋骨をなぞるだけの機械に、なってみたいものだなぁ。

「薔薇の洪水」

高架下の落書きみたいに
価値のある歌詞を書きたい

この歌詞を初めて聴いた時、痺れた。いちいち言及していては先に進まないほど、この曲の歌詞はリズム感とアソビと軽やかな美しさで溢れている。

「夏よりも暑いシーズン」
言葉のリズムまで完璧だ。疾走感あるサウンドにのせてくるあたりも最高だ。

そう、いままで歌詞にばかり注目していたが、ギリシャラブはサウンドも素晴らしい。まだサウンドに対する語彙を持ち合わせていないもので、うまくいえないのだが、全体にハニー・グレーズを纏うような音がとても好きだ。「夜の太陽」「ライムライト」あたりはわかりやすいと思う。写真で例えると、靄のようなエフェクトがかかった感じ。「悪夢へようこそ」ようにガツンと来るギターの音色も好きだ。

「ジェリー」

ああ、全部が大好き。まだうまく言葉が見つからないのだが、客間の棚から美しく並んだモエ・エ・シャンドンが出てきそうだ。このノーブルで頽廃的な雰囲気を日本語で味わえるのは、今のところギリシャラブしかいないのではないか、と声高に言いたくなる。でも不思議と、安アパート暮らしの私の隣にもちゃんといてくれる安逸さがあるのがまた良い。

この雰囲気を醸し出せるのは、フレディー•マーキュリーとギリシャラブくらいしかいないのではないか。

「退廃万歳」
キタ。数年間ギリシャラブを聴き続けて、こんなに衝撃的な曲が来るとは思わなかった。ギリシャラブの無限の可能性、新しい時代を感じさせた。ワクワクする、ゾクゾクする。

いつまでも革新の手を緩めない(いや、むしろ”核心”に近づいている…?)そんなギリシャラブがもっともっと好きになった。

✳︎
音楽を熱心に聞き始めた中学生から今まで、たくさんのトレンドがあった。昔聞いていたアルバムを聴くと、その時代の空気ごと思い出して、とても懐かしい気持ちになる。

しかし、ギリシャラブは一度も“懐かしい”と思ったことがない。何年間ものあいだ、いつも私の隣にあった。

これだけ長く一緒にいるのだから、
恐らく今後もずっといるのだろうと思う。

明後日はいよいよライブだ。
サイズ違いで買ってしまったLサイズのダボダボバンドTシャツを着て、新たなる世界に足を踏み入れたいと思う。

end.

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