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1回目~4回目 レポートまとめ テキスト第5章において筆者は、沖縄の子どもたちの学習内容面での不利さについて例を挙げながら考察している。この考察をふまえて、その他の学習内容面での不利さについてあなたの体験を交えながら具体的な例をいくつか挙げたうえ考察しなさい。

1回目
 沖縄の子どもたちの学習内容面での不利さについて、テキスト第5章に挙げられていないその他のその理由について、私自身の体験を交えながら具体例を挙げたうえで以下に考察する。

私自身、沖縄出身ではなく、沖縄の糸満に2年住んだことがある程度であり、沖縄の子どもたちと触れ合った直接的な経験はない。よって、沖縄の子どもたちの学習内容面での不利さについてはわからないというのが正直なところである。他方、想像力はあるので考察は可能である。

学習内容面での不利さについて、自分の体験としては、ほとんど記憶がなく、すべての課目が良くできたことから、不利さはほとんど感じたことが無い。例えば、音楽の授業で、バイオリンがあったとすれば、実際に弾いたことが無いのでうまく弾けないとか、ほとんどの児童が経験の無いようなことについては、事前に認知していないという不利さはあるが、皆が不利であり、相対評価であれば、不利さは無視されるだろう。テキストの記載の中では、不利さの例として、生物の実物を見たことが無い、経験していないことはよくわからない、言葉の壁や文化の壁などが挙げられているが、それが本当に理由になるのかどうか疑問である。どこの地域の児童でも、多かれ少なかれ沖縄と同じ理由程度の不利さはあるだろうし、沖縄と内地において有意な差が本当にあるかどうかについて、テキストでは統計的に示されている訳でない。言ってみれば、それは筆者・専門家の主観なのではないかというニュアンスが強いのではないか。

離島があるのは沖縄だけではない。例えば、東京にも離島があり、小笠原村の母島はどうだろうか。そこの児童は、沖縄の本島よりもかなりの田舎であり、人口450人程度の二次離島であり、そこの児童と沖縄の児童との学習不利さについて比較したらどうなるだろうか。そういった比較をもって記載することが研究者としての責務ではないだろうか。

例えば、都会であれば、学習塾が多くあり、塾に通う児童が多いのではないか。塾に通うことで学習内容面の地域的な不足を学校以外で補足できることにつながる。都道府県別小学生通塾率を参考にすれば、その傾向があることが分かる。他方、秋田県の通塾率は沖縄より低いのにも関わらず、成績が良い。単に沖縄と秋田県を比較した場合、塾の通学率で学習内容での不利が解消されているかと言えないのではないかという仮説が生じることになる。この辺りは、専門家である研究者の統計的分析で詳細が語られるだろうが、私の考察としては、もともとのIQが低いということが理由なのではないか。頭のいい都道府県のIQランキングでは、沖縄は47位であり、最下位である。このことが学習不利さの原因といえるのではないか。現実を直視することが大切であると筆者はよく解説されるが、このことを無視して研究されているのかもしれない。同ランキングでは沖縄と秋田県のIQは103であり、37位の秋田県とはあまり差が無い学力テストの成績はトップと最下位の差がある場合があるという事である。このことは、もともとIQは同じくらいであるが、塾に通っていない秋田県の方が、成績が良くなってしまう要因があり、その要因は沖縄の学習不利さが関与しているのではないかという疑問が発生することになる。本当に、沖縄に学習不利さが秋田県より多いのかどうかについては、むしろ秋田県の児童の方が、不利さが多いのではないということを証明できるのではないかと思慮している。

学習内容面に間接的に影響を与える要素としては、学力問題再考(P35中段)によれば、秋田県教育庁教育次長が「大事なのは教育風土です」と発言されており、沖縄県の不利さは、「教育風土」にあると言えるのではないか。確かに、自分の経験から言えば、沖縄の学校を訪問した際に、学校の雰囲気、学習する風土が沖縄の教室には感じられない、何とも言えない緩さを感じたが、このことが風土の違いを証明する要素の一つなのではいだろうか。

以上(約1,619文字)

 ※参考文献 https://todo-ran.com/t/kiji/14737

都道府県別小学生通塾率 2017-12-8最終更新

https://rank1-media.com/I0005126

都道府県のIQランキング47選!頭いい地域を公開【2023最新版】

静岡大学学術リポジトリ (nii.ac.jp)

学力問題再考 : 秋田と沖縄の比較を通して 2011-06-20

設題者からの評価コメント

 早めの提出ありがとうございます。いろいろ調べて熱心に取り組んでくれているのはわかるのですが、 申し訳ないですが再提出お願いします。   まず、問に正確に答えてください。論点がずれていっているように思います。 「学習内容面での不利さ」に絞って論述してください。  また関連しますが、動画や設題等でふれていますが、 今回は学習環境面についてはふれないようお願いしているところです。 例えば、通塾は学習環境の問題になります。  さらに、根拠資料を引用する場合は、 できるだけ学術論文か公的機関が公表したデータにしてください。 例えばIQの引用はきちんとした学術研究でしょうか?もしそうであれば、 論文名や著者名等を挙げてください。  なお、本文中に動画等で使用しないようお願いしているNGワードが使われています。 もう一度「レポートの書き方」の動画を参照して修正してください。  よろしくお願いします。

2回目
 沖縄の子どもたちの学習内容面での不利さについて、テキスト第5章に挙げられていないその他のその理由について、私自身の体験を交えながら具体例を挙げたうえで以下に考察する。
私自身、沖縄出身ではなく、沖縄の糸満に2年住んだことがある程度であり、沖縄の子どもたちと触れ合った直接的な経験はない。よって、沖縄の子どもたちの学習内容面での不利さについてはわからないというのが正直なところである。他方、想像力はあるので考察は可能である。
学習内容面での不利さについて、自分の体験としては、ほとんど記憶がなく、すべての課目が良くできたことから、不利さはほとんど感じたことが無い。例えば、音楽の授業で、バイオリンがあったとすれば、実際に弾いたことが無いのでうまく弾けないとか、ほとんどの児童が経験の無いようなことについては、事前に認知していないという不利さはあるが、皆が不利であり、相対評価であれば、不利さは無視されるだろう。テキストの記載の中では、不利さの例として、生物の実物を見たことが無い、経験していないことはよくわからない、言葉の壁や文化の壁などが挙げられているが、それが本当に理由になるのかどうか疑問である。どこの地域の児童でも、多かれ少なかれ沖縄と同じ理由程度の不利さはあるだろうし、沖縄と内地において有意な差が本当にあるかどうかについて、テキストでは統計的に示されている訳でない。言ってみれば、それは筆者・専門家の主観なのではないかというニュアンスが強いのではないか。
離島があるのは沖縄だけではない。例えば、東京にも離島があり、小笠原村の母島はどうだろうか。そこの児童は、沖縄の本島よりも田舎であり、人口450人程度の二次離島であり、そこの児童と沖縄の児童との学習不利さについて比較したらどうなるだろうか。そういった比較をもって記載することが研究者としての責務ではないだろうか。
沖縄の子どもたちの学習内容面での不利さを再定義すると、学習内容として一律に文部科学省が指定しているが、それについて具体的に沖縄の子どもたちが通常の沖縄での生活において認識することが困難なもの、文化的に認識できないといようなものであり、一般的な都市部の子どもたちに比べて不利に働く要素となるものである。具体的に思いつくものは、電車を見たことがない沖縄のこどもがいるとすれば、電車にまつわる算数の問題は問題を解く際に概念化しにくいのかもしれないだろう。また、同様に山を見たことが無い沖縄の子どもがいるとすれば、山に関わる自然環境的な学習内容について、直感的な認識力に欠けることにつながり、それが点数を取るというような学習の局面では不利に働くことにつながるかもしれない。これらは、例えば、エスキモーが多数の雪の性状を認識することができるが、雪を見たことが無い人間にとっては、せいぜい2種類程度の雪の種別を区別できるというような話と似ている。ここでは、電車、山、雪の例を挙げたが、これらは沖縄の子どもたちが普段の生活で認識することが少ないものが、学習内容面での不利さにつながるという例を挙げた。
考察として、学習内容面での不利について、沖縄だから不利さが多い、だから学力テストで点数がとれないのであるというのは、ある程度事実な側面はあるかもしれないが、それを強調することは、なんとなく恥ずかしいと感じる。自分たちの環境の不遇さを盾に、自分たちの愚かさを正当化するようなものであり、それらをどのように乗り越えるかを制度としてこどもの学習に落とし込むことに価値があるとおもうのだが、それらを放棄して、自分たちがいかに不遇であるかを追求するような研究目的であるとすれば、非常に残念であると感じている。
付け加えると、実際に沖縄の義務教育を受けていないものにとっては、沖縄育ちの方が、いかに沖縄の学習内容面での不利さは沖縄以外で生活する上で辛い面があることを直感的に理解できないように、少数派で辛い思いをしている人たちの立場でものを考えることは、多数派にとっては難しいことなのだろう。
以上(1,669文字)

評価者からのコメント
提出ありがとうございます。ただ申し訳ないですが再提出をお願いします。  繰り返しになってしまいますが、論点がずれています。 今回は「学習内容面での不利さについてあなたの体験を交えながら具体的な例をいくつか挙げ」 てもらうことになっています。そうした経験に基づいた例が見当たりませんでした。  例えば動画にあるような10月10日の例のように、 沖縄の友達と話をしていて噛み合わなかったなどのエピソードがあればいくつか挙げてみてください。 もし沖縄で書くのが難しいようであれば、ご自身の出身地での経験に基づいて記述してください。  批判も結構ですが、いくつか事実誤認がありますし今回の論点からはずれていると思いますので、 もしどうしても書くと言うことであれば次回に回してもよいと思います。  よろしくお願いします。

3回目
 沖縄の子どもたちの学習内容面での不利さについて、テキスト第5章に挙げられていないその他のその理由について、私自身の体験を交えながら具体例を挙げたうえで以下に考察する。
私自身、沖縄出身ではなく、沖縄の糸満に2年住んだことがある程度であり、沖縄の子どもたちと触れ合った直接的な経験はない。よって、沖縄の子どもたちの学習内容面での不利さについてはわからないというのが正直なところである。他方、想像力はあるので考察は可能である。
学習内容面での不利さについて、自分の体験としては、これも沖縄以外の人がしばしば経験する話だと思うが、沖縄の方々との会話の中で、「〇〇しましょうね」というような表現を始めてされたときに、私がそれをしなければならないのかと誤認してしまい、その意味合いは、私が○○するから、やっておくから大丈夫ですよというようなニュアンスであることに面を食らったことがある。これは、お互いに円滑なコミュニケーションにならず、噛み合わなかった体験であった。ただ、このフレーズは、だんだんと慣れてくるもので、やんわりとした表現でもあることから、沖縄で生活しているうちに自分でも使うほどになったが、このニュアンスが沖縄の子どもたちにとって、国語の学習において日本語を理解する上で不利に働く可能性があるのかもしれないのではないだろうか。
沖縄ではないが、与論島で会議をしたときに、自分以外の数名が与論出身であり、会話が与論語(与論の方言)で交わされたときには、会話の内容が理解できず、議事録すら取ることが出来なかった経験をした。このことは、沖縄の方言で育った子どもたちが、標準語で授業を受ける際に、物事の観念やイメージがしっくりこない感じや、湧きにくいということと同様な事例なのかもしれない。このあたりの標準語とのずれが、学習内容面への不利さに関連していると言えるのかもしれないだろう。
沖縄の子どもたちの学習内容面での不利さを再定義すると、学習内容として一律に文部科学省が指定しているが、それについて具体的に沖縄の子どもたちが通常の沖縄での生活において認識することが困難なもの、文化的に認識できないといようなものであり、一般的な都市部の子どもたちに比べて不利に働く要素となるものである。具体的に思いつくものは、電車を見たことがない沖縄の子どもがいるとすれば、電車にまつわる算数の問題は問題を解く際に概念化しにくいのかもしれないだろう。また、同様に山を見たことが無い沖縄の子どもがいるとすれば、山に関わる自然環境的な学習内容について、直感的な認識力に欠けることにつながり、それが点数を取るというような学習の局面では不利に働くことにつながるかもしれない。これらは、例えば、エスキモーが多数の雪の性状を認識することができるが、雪を見たことが無い人間にとっては、せいぜい2種類程度の雪の種別を区別できるというような話と似ている。ここでは、電車、山、雪の例を挙げたが、これらは沖縄の子どもたちが普段の生活で認識することが少ないものが、学習内容面での不利さにつながるという例を挙げた。
考察として、学習内容面での不利について、沖縄だから不利さが多い、だから学力テストで点数がとれないのであるというのは、ある程度事実な側面はあるかもしれないだろう。しかし、それを強調することは、私は、なんとなく恥ずかしいと感じる。なぜなら、自分たちの環境の不遇さを盾に、自分たちの至らなさを正当化するようなものであると考える。それらの不利さをどのように乗り越えるかについて、教育政策を構築する側が制度としてこどもの学習に落とし込むことに価値があると考えている。
付け加えると、実際に沖縄の義務教育を受けていないものにとっては、沖縄育ちの方が、いかに沖縄の学習内容面での不利さは沖縄以外で生活する上で辛い面があることを直感的に共感することが難しいだろう。学習内容面での不利さに関し、辛い思いをしている人たちの立場でものを考えることは、不利さを経験していないものにとっては、不利さを感じている人たちに寄り添い思いやることが大切なことなのは言うまでもないだろう。
以上(1,705文字)
 
評価者からのコメント
 提出ありがとうございます。ただ申し訳ないですが再提出をお願いします。  今回は動画や設題等でお願いしているように、「テキストや動画でふれられていないオリジナルのもの」 を複数挙げてもらうことになっています。 「しましょうね」の例はテキストや動画でふれていますので、それ以外の例を挙げてください。  また設題では「経験に基づいた具体的な例」を挙げてもらうことになっています。 与論島の例は経験に基づいている点では良いのですが、具体的ではありません。 例えばどのような方言(単語)がわからなかったのか、 こんな言葉が別の意味に聞こえたなど、より具体的に記述してください。  よろしくお願いします。

4回目
 沖縄の子どもたちの学習内容面での不利さについて、私自身の体験を交えながら具体例を挙げたうえで以下に考察する。
私自身、沖縄出身ではなく、沖縄の糸満に2年住んだことがある程度であり、沖縄の子どもたちと交流した直接的な経験や記憶は少ない。
学習内容面での不利さについて、自分の体験としては、沖縄の方々との会話の中で、飲み会の誘いを断ったところ、「はっさ」というような表現を始めてされたときに、私は何を言っているのかわからず、困惑してしまった。なんとなく話の流れや雰囲気から良い意味ではないということは感じ取ることはできたものの、その意味合いは、あらまあ、とか、何かに呆れているときに発する言葉であることに面を食らったことがある。これは、お互いに円滑なコミュニケーションにならず、噛み合わなかった体験であった。また、「ぬし」や「いんがー」という言葉も、沖縄でよく聞いた言葉であるが、文脈から「ぬし」は人を指すことはなんとなくわかったが、「いんがー」が犬であることはわからなかった。特に「ぬし」は、仕事でも多用され、生活の中にも溶け込んでいる言葉であると実感したものである。ただ、これらのフレーズは、だんだんと慣れてくるもので、短くて使いやすく、結局お互いにわかりやすくなる表現手段でもあることから、沖縄で生活しているうちに自分でも使うほどになった。
沖縄ではないが、与論島で生活をしたときに、与論語(与論の方言)で「とうとがなし、ふみゃがーびらん、ふがんどぅーさぬ」は、「ありがとう、こんにちは、おひさしぶりです」であるが、全く日本の標準語と違う言葉やイントネーションが多く、標準語から変化した言葉ではなく、与論から生まれた言葉であるような独自の言語を有しているように感じ、すべて与論語にされるとほぼ理解ができないという状況を経験した。別の言葉に聞こえるもなにも、そもそも何を発声しているのか全く分からない単語が連続するという状況を感じたのは、日本国内では初めてであった。このことは、方言で育った子どもたちが、標準語で授業を受ける際に、物事の観念やイメージがしっくりこない感じや、湧きにくいということと同様な事例なのかもしれない。このあたりの標準語とのずれが、学習内容面への不利さに関連していると言えるのかもしれないだろう。
沖縄の子どもたちの学習内容面での不利さを再定義すると、学習内容として一律に文部科学省が指定しているが、それについて具体的に沖縄の子どもたちが通常の沖縄での生活において認識することが困難なもの、文化的に認識できないといようなものであり、一般的な都市部の子どもたちに比べて不利に働く要素となるものである。具体的に思いつくものは、電車を見たことがない沖縄の子どもがいるとすれば、電車にまつわる算数の問題は問題を解く際に概念化しにくいのかもしれないだろう。また、同様に山を見たことが無い沖縄の子どもがいるとすれば、山に関わる自然環境的な学習内容について、直感的な認識力に欠けることにつながり、それが点数を取るというような学習の局面では不利に働くことにつながるかもしれない。これらは、例えば、エスキモーが多数の雪の性状を認識することができるが、雪を見たことが無い人間にとっては、せいぜい2種類程度の雪の種別を区別できるというような話と似ている。ここでは、電車、山、雪の例を挙げたが、これらは沖縄の子どもたちが普段の生活で認識することが少ないものが、学習内容面での不利さにつながるという例を挙げた。
考察として、学習内容面での不利について、沖縄だから不利さが多い、だから学力テストで点数がとれないのであるというのは、ある程度事実な側面はあるかもしれないだろう。しかし、それを強調することは、私は、なんとなく恥ずかしいと感じる。なぜなら、自分たちの環境の不遇さを盾に、自分たちの至らなさを正当化するようなものであると考える。それらの不利さをどのように乗り越えるかについて、教育政策を構築する側が制度としてこどもの学習に落とし込むことに価値があると考えている。
以上(1,677文字)

さて、評価者に満足されるレポートとなっているのでしょうか。
こんなくだらないレポートに果たしてまともに付き合う価値があるのでしょうか?
はたまた、この評価者はこの授業で自己顕示欲を満たすことが目的なんでしょうか?
授業受ける側も暇人に付き合うほど暇じゃないと思いますがね。
 この人が主張されたいことをいちいち鵜呑みにすることがお勉強なんでしょうかね。
 少なくともこの人が主張されることに第一感として説得力を感じないのは、授業のやり方やコメント力や表現力から伺う何かが私のフィルターに大きく引っかかっていることは、大切にしたいです。

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