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人類文化の比較 「人類とは・・・」

人類文化の比較
2021/7/27 期末レポート 関連テーマ 「人類とは・・・」
 人類の歴史は約1万年程度であり、我々が認識可能な現代はその期間の1/1000程度(10年ほど)程度とすると、その他の999倍の期間は、スマホや高速の移動手段・通信手段を持たない時代であったといえることから、現在の人類は特異な時期を過ごしているといえるのではないか。この特異な時期の期間を過ごす我々現代人を、有史以来の人類と同類と扱ってよいのだろうか。同類の扱いの根拠としては、脳のサイズや人間としての身体的な基本的性能はたいして変わらないことや、沖縄大学院大学のペーポ教授によれば、古代人が現代にもわずかに生き残っている ということがヒトゲノム解析で研究されているところである。そもそもひとくくりにして、「人類とは」と定義づけることが適切なのかも疑問である。例えば、地球外生命体として、いわゆる人類のヒトゲノムと同質な「彼ら」が地球にやってきたときに、「彼ら」を人類と呼べるのだろうか。約1万年前の人類が何らかの方法で宇宙彼方に連れ去られ、そこで文明・文化を構築し、再び地球に戻ってくる、もしくは、遥かかなたの人類の祖先が1万年前に地球におりたって、遥かかなたの人類の祖先に会いに行ったケースでは、祖先といえども同じ人類といえるのだろうか。一方で、同質の共同体で生活する範囲を人類と定義するには定義域が狭すぎるともいえるのではないか。
 さて、ここで、情報を整理するためにもwikipediaで人類について、検索してみると、「人類(じんるい、英: humanity)とは、個々の人間や民族などの相違点を越える《類》としての人間のこと[1]。この用語には、「生物種としてのヒト」という側面と、「ひとつの《類》として実現すべき共同性」という側面がある[1]。」と記述されている。
また、「生物種としての人類[編集]生物種としての「人類」というのは、現生種(現在も生きている種)、化石種(すでに化石でしか存在しないもの)の別を問わず「ヒト」という概念に含まれるものの総称[2]だが、どの範囲まで含むかについては多々議論があり、化石種についてもホモ・サピエンス以外のものに関しては現在でも議論が繰り返されている状態にある[2]。共通している特徴としては、直立歩行できること、犬歯の短小化が起きていること、尾が退化していること、などがある[2]。」と記述されている。
 人類とは、個々の人間や民族などの相違点を超える類としての人間のことと定義されているようである。生物種としては、「ヒト」という概念に含まれるものの総称であるということであり、その範囲が不明確で議論の余地が残っており、不明確な観念であることが伺われる。人類皆兄弟・四海皆兄弟というような言葉があるが、兄弟的に思える範囲を人類と定義することが一つできるのではないか。そうすると、例えば、地球外生命体であって、ゲノム的に類似する(生殖可能)「彼ら」であっても、最初は人類ではないと観念化されるが、ひとたび相互交流することで人類としての観念化・共同性を有するも可能となるのではないか。いや、そもそもゲノム的な類似性をもって人類と定義することが科学的に明快であるという発想もあるかもしれない。
 さらに、1万年後もしくは近未来に、現在の科学技術がさらに進化して、ヒューマノイド、いわゆる人間とロボットの融合が完成された場合、この半人半機械に対しては、人類に含めるのかどうか、どう考えたらよいのだろうか。例えば、すでに補聴器などはAI化がされており、必要な音源のみ耳に伝える機能すらあるとものもある。それは、果たして「ヒト」といえるのか。また、動物とのコミュニケーションが可能となるツールが発明された場合、共同性意識を持つことが可能となることから、動物が非常に人類に近い存在にもなりうることのではないか。また、各種動物の器官について人間への移植もしくは、器官単体での生成・再生が可能となった場合、「ヒト」としての機能を超えた「超ヒト」への進化人類の存在も視野に入っているのではないだろうか。
文化について考察すると、かなり進化した数千年後には、現在の文化、かつての文化の継承はされているわけはないだろう。なぜなら、仮に、現代人が30年前の文化で生きろと言われても快適さになれてしまった「ヒト・人類」は、それを本能的に拒否し、記憶すら忘れているに違いないと想像できるものである。例えば、現代日本人が、いわゆる鎖国状態で文明・情報的に統制されている現在の北朝鮮で生活することが果たして可能だろうか。もちろん共同性は少なくとも生活はある程度は可能であるが・・・。「ヒト」は一度快楽を味わってしまった場合、あえて制限のある世界に戻るのは、繁栄を拒否し、生物種としての滅亡を意味するのではないだろうか。我々の多くは、スマホからポケベルに戻れといわれても無理だし、新聞を紙で読めと言われても、躊躇する若者が多いのではないだろうか。そういう意味では、人類文化の比較の講座に於いては、世界各地の人類発展における存在意義・文化的習慣・宗教的習慣などについての一部を触れることができたともいえる。
 以上(2,051文字)

2021/7/20
沖縄の民俗信仰
沖縄群島から八重山諸島までが沖縄の民族信仰の影響が大きい地域である。「ノロ」は公的な祭祀を執行した。「ユタ」は霊的職能者として、私的な占い、呪いなどの呪的な信仰領域・カウンセラー的な事に関与した。年祝いとしては、12年毎の年周りで祝う系列がある。また、祝いの前日に死んだこととし、翌日は生まれ変わったという解説もあり、疑似再生をみることができる。火の神(ヒヌカン)は、3つの石、香炉、水を入れたコップと塩をのせた皿などを置く。女性にとっては、心の葛藤を含めて心情を打ち明ける対象でもあった。門中は、中国の宗族と日本の家制度の双方の特徴を備えている。旧暦5月15日に総本家に集まり、清明祭などには、門中墓に集まって先祖祭祀を行う。人々に秩序を与えるものとして門中のしくみと位牌祭祀の原則が受け入れられ、そこに民間のユタが関与した点が注目されている。

2021/7/13
墓と社会集団
墓は、人間がつり出した社会的装置である。定義として、死者の記録、あるいは供養・祭祀のために設けられた可視的に認識されうる標識あるいは施設である。墓地とは、埋設地あるいは墓の集合として一定の空間を占拠した区域である。墓地は一般に生者の世界と区分された空間に設けられることが多い。また、墓地は無税地であったこともある。一方で、墓地は居住空間/居住敷地の中に組込まれることもある。一定の社会集団が共同で利用することを前提にされている。地縁関係を通じて墓地が共有されている形態や宗教と共通にする人々の集団が墓を共通にすることがある。日本では、家族が連続することを前提として、民法に祭祀条項(第897条)があり、欧州は無く、墓の継承に関し法制度が異なる。他方で、日本では少子化等により家族の連続性を維持することが実質困難になっており、撒骨や家墓を止揚し、新しい形態の墳墓を模索しはじめている。

2021/7/6
<まとめ>
シャーマニズムと憑きもの
シャーマンは、依頼者・信者に対してさまざまな役割を果たしている呪術・宗教的職能者である。超自然的存在=霊的存在と直接交流している。シャーマニズムの構成要素は、エクスタシー(脱魂:ecstasy)とポゼッション(憑霊:possession)の双方であるとされている。日本にいては、憑依型シャーマンが優勢である。それには、(1)憑入型(2)憑着型(3)憑感型の三型がある。一般にある人物がシャーマンになるシャーマン過程には三通りあり、第一は、召命型、第二は修行型、第三は職業型(憑入のみ)がある。中世になると、動物霊を操作する職能者があらわれ、「憑きもの使い」と呼ばれた。弊害をもたらすとされた憑きもの筋は、江戸中期に成立したとされ、閉鎖的な社会などで成金となった場合に、憑きもの筋とされ、社会的制裁を受けることがあったとされる。徐祓しなければならず、それを担当する人物は、シャーマン的職能者である。

2021/6/29
<まとめ>
宗教儀礼の諸相
儀礼の実施の機会により、三つに分類される。①人生儀礼(life-cycle ritual)②年周儀礼(calendrical ritual)③危機儀礼(critical ritual)。儀礼の形態として、A.ファン・へネップは、通過儀礼(1909年)という著作のなかで、「分離」期、「過渡」期、「再統合」期という三つの段階として分類した。例えば、アフリカの多くの王国での王の即位儀礼にみられる奴隷が王を一時的に征服するというような下剋上的な儀式、日本における一揆時等の村の儀礼(平等で友愛的な状態)などにおいて、いわゆる独特のルール(儀礼・しきたり)に即して、セレモニーが実施される習慣・諸説があるとされる。儀礼の定義は、「特定の機会に反復される、状況の何らかの変化を目的とする行為で、その状況の変化という移行を非日常的な時空間において徴づける象徴的表現行為である」とされる。時間的な区切り、非日常的な空間、文化の恣意的な差異を共有するための確認としての機能を持つ三点に特徴がある。


<まとめ>
神話
起源により4つに分類される。宇宙・人類・文化期限及び人間状況神話である。さらに、神話と儀礼について、相互依存関係があることが認められているものの、どちらが先に生まれたのか、優越性などについて、正確に区別することは困難であり、諸説があるところである。人類学においては、いわゆる神話のシンボリズムについて、解釈・研究がおこなわれており、フロイト流の性的シンボルや思考構造・社会構造としての解釈がなされている。例えば、東アフリカのカグルー族の昔話においては、ウサギとハイエナが生き延びるための食糧として、家族を殺す話であるが、その解釈として、宇宙論的弁証法、象徴的性交(近親相姦)、社会秩序、二元論的などとされており、神話の表現について、社会的、経済的、倫理的、宇宙論的、等々の文化的諸コードに照らしつつ解読する必要があるものとされている。

2021/6/15
<まとめ>
宗教文化としての呪術
 呪術(magic)、宗教(religion)、類感呪術(homeopathic magic)、模倣呪術(imitative magic)、感染呪術(contagious magic)、邪術(sorcery)、邪術師(sorcerer)、呪医(witch doctor, medicine-man)、治療師(curer)、占い師(diviner)、シャーマン(shaman)、妖術(witchcraft)、妖術師(witch)、邪視(evil eye)、黒呪術(black magic)、白呪術(white magic)等に分類される。意味合いとしては、超自然的世界や存在(神など)を何らかの方法で統御し支配しようとするものであり、目的/役割に応じて上記に挙げた名称に分類等されている。
 例えば、呪術/妖術が心理的な不安・恐怖・ストレスを取り除くという心理的機能をもつことが研究/分析されている。他方、社会的機能・経済的機能(富の再分配)・政治的機能・社会統制・秩序維持機能など呪術研究が展開している。最近では、呪術は願望の象徴的な表現・文化システム(災因論)・コスモロジー(宇宙論)・伝統的社会秩序を操作する機能という研究もされている。人間の不安等の生きる障害等の不合理により、呪術的な信仰が民俗的に生み出されていくものと解釈されている。


2021/6/8 レポート
<まとめ>
世界宗教と民俗宗教

 宗教は人間の内部にあるものである。それらの宗教をカテゴライズすると3つに分類される。世界宗教、民族宗教、民俗宗教である。世界宗教とは、世界中に広く分布しているものであり、多くの国々で基本的には同じように信仰しているものである。民族宗教とは、ある一定の地域において、広く信仰されているもので、世界中に信仰されているものではない、地域限定の宗教といえる。民俗宗教というのは、地域限定のさらに地域限定、小集団(村落共同体)で信仰されている土着の宗教である。
 例えば、フィリピンでは、世界宗教が布教を試み、住民の多くがカトリック化をされたといわれているが、カトリック化以前の在来の宗教、つまりアミニズムを中核とする民俗宗教(バランガイ)があり、両者との混在化(一部の宗教的シンクレティズム)が特徴である。よって、人間の内部にあるものは、容易には洗脳できないことから、外来宗教と土着の精霊信仰との一種のせめぎあいの過程が伺われる事例である。

<まとめ>
 漁撈・漁撈文化
 漁撈文化とは、要するに、漁とともに生きる集団の文化のことである。その道具・文化・集団心理・風習等がある一定の期間積み重なったものと考えられている。集団が生きるために海の幸をいかにして効率的に合理的に採取するかということで、道具等が発明・開発され、航海技術や測量技術等も併せて発展していった。また、能力主義文化や厳格で伝統的な掟文化を有していた。漁撈民の精神性は、開放的、自由的気質であり、新進の気性であり博奕性を伴う生業であることからも、博奕的気性が強まるという特徴がある。そのため、農耕民との対立が社会的な障壁になっていることも特徴である。信仰心も篤く、沖言葉などの風習も生まれた。世界的にも、地域によって収穫可能な魚類の違いにより、それぞれの漁猟文化が発達した。食品加工/保存の技術などもそれぞれの地域特性に併せて開発された。魚や彗星動物への信仰や禁忌が広くみられ、女性を漁撈から排除し、大型水生動物に超自然的観念を見出す社会が多く、神話や逸話も多い。

2021/5/18 レポート
 <まとめ>
農耕による社会の飛躍
 人類が飛躍的に発達したのは、保存食となる穀物の生産に成功したからということである。イモ類では、いわゆる人間が生きるエネルギーである費用対効果がコメに比べて乏しいからである。逆に言えば、さらに人類が発達するカギは、コメ類に比べて費用対効果の高い職人が生まれることである。漫画でドラゴンボールの中で、「せんず」という豆があるが、」あれは、1粒で10日間生きられる食べ物であり、そのようなものが生み出されることで、さらなる飛躍が可能であるということである。科学技術においても、エネルギーと言えば電気であり、現在蓄電池などが開発されており、エネルギーが長期に小容量で保存できるように進化していることが、人類の発展に貢献していることになっているのと、同じような理屈ではないかと推測している。人類の幸せが多様化している中で、かつての狩猟採集生活をする地域社会は減少しつつあり、文明発展や開発の加速度は増すばかりであり、人間本来の営みを見つめなおす時間を日常生活に取り入れることで、人類繁栄の安定化につながるのではないかという趣旨が本資料の中から読み取れる。
 

2021/5/11 レポート

 <まとめ>
  人間が採集狩猟から生産するという発明が一万年前に人類によってなされた。かつては、その日暮らしだった、採集狩猟の生活から、自ら食料を生産・管理して群を形成して生活するスタイルに変化した。環境と共存していた生活から、環境を利用し、ものを意図的に生産するという人類だけに可能な道を歩み始めた。生業としての牧畜が成り立つためには、適当な環境及び少なくとも二つの技術的問題を解決される必要があり、搾乳する技術及び群をコントロールする技術である。合理的・効率的に畜産を管理する知恵を人間が考案したことにより、気候・地域状況に応じて牧畜文化が地球各地で現れた。
 牧畜には3形態あり、①遊牧②移牧③定住牧畜がある。日本の酪農は③定住牧畜である。
 特に、東アフリカのサバンナ地域でのマサイ族等の牧畜社会の特徴は、①草と水をもとめての遊動とキャンプ②性別と年齢による役割分担③出自による分節システムがあげられる。 

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