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幸せにこだわるのをやめたら、幸せになれるのかも?

このまえ屋久島に行ったときは、年末年始にもかかわらず最高気温が20℃近くあって、春を思わせるような気候でした。さわやかな空気のなか、車もまばらな下り坂をびゅーんと自転車で下りていくのは最高に気持ちよかったです。あ〜幸せだなあ〜という気持ちが自然と湧いてきました。

私は温泉に浸かったときにも最高に幸せな気分になります。あとはジムで程よい強度の運動をしたときとか。人によっては、美味しいものを食べたときとか、きれいな洋服に身を包んだ時とかにも同じような幸せを感じるのかもしれません。

ただこの類の幸せと、「自分の人生は幸せだった」というときの「幸せ」って、ちょっと違うものなのかもしれないな、と自転車を漕ぎながら思ったんですよね。気持ちいいときの幸せは、その時は間違いなく幸せな気分になるけど、その刺激がなくなってしまったら幸せな気分もだんだん消えて行ってしまいますよね。まあ思い出したりすることで少しは取り戻すことはできますけど。

一方で、振り返ったときに幸せな人生だったという時、そこには「意味」としての充実感のようなものの存在を感じます。すべて気分とか感情とかは最終的に消えてなくなってしまうんだけど、それでも残る人との関係性とか、成し遂げた仕事とか、周りに与えてきたものとか、そういうものが意味としての幸せを形作るのかなと。

ふだん自分が「今」幸せかどうかを考えてる時って、どちらかというと「気分としての幸せ」にとらわれているような気がするんですよね。それで、ああ今は幸せじゃない・・・と思うと、余計にみじめな気持ちになって、本当に自分が幸せじゃないような気がしてきてしまうんです。

でもそこまで考えて、自分にとって大事なのはそっちじゃなくて、「意味としての幸せ」のほうなんじゃないか、と思いあたりました。意味を作るためには、当然ですけど年単位よりもっと長い時間が必要です。その間には、当然つらいこともくぐり抜けていかなければいけないし、そういう時には気分としては最悪になりますよね。でもそれで全然OKなんじゃないかと。

だから、自分にとって本当に大事な幸せを手にするには、むしろ常に「幸せな状態でいること」を手放してもいいんじゃないか? そういうふうに思ったのです。気分がいい状態を保つことにこだわると、刹那的な快楽を求めてしまったりして、結局のところ意味としての幸せからは遠ざかってしまうのかもしれないなと。

もちろん楽しく生きていくためには、時々「幸せな気分」になることは必要だと思うので、生活のなかにそう感じられる仕掛けをいくつか用意しておこうとは思います。でも本当に大事なのはそこじゃないということは忘れずに、今年一年を過ごしていけたらいいな。そんなことが屋久島の空気のなかにいたら浮かんできたので、忘れないうちに書き残しておきます。

サポートしてくれたら、私が美味しいものを食べます笑