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「やめるときも、すこやかなるときも」(窪美澄 著)

在宅ワークがメインになって通勤の頻度が減ったのはありがたいことなんですが、本を読む時間が確保できないのが悩みの種です。この本も、1ヶ月くらいかけてようやく読み終えました。

このレビューを書く段階になって、この小説がドラマ化されていたことを知りました。ていうか小説自体は2017年の作品なんですね。6年ものあいだ全くこの作品を知らずにいて、何かの拍子に出会えるというのも、文庫本の醍醐味かなあと思います。

家具職人の独身男性(壱晴)と、会社員の独身女性(桜子)、どちらも30代の男女が出会って・・・という話なんですが、壱晴の人物描写がとても魅力的ですよね。影があって色気があるというか。一方桜子のほうは(意図的に)ぱっとしない感じに書かてれていて、壱晴がこんなにもすぐ惹かれる要素が正直あるのかなと。小説の中盤あたりの少女漫画的な展開はちょっと読んでてしんどかったです。笑

でも終盤が近づくにつれてその意味が少しずつ分かった気がします。桜子にすればむちゃくちゃ失礼な話だけど、壱晴は過去のトラウマを乗り越えられるかどうかが決定的に重要で、それは桜子の女性としての魅力とかとは本質的に関係ない部分で、壱晴を突き動かしているのだと。これはある意味この小説の残酷な部分でもあり、魅力でもあるように感じました。

あとがきで山本文緒さんが触れているように、「純愛というには主人公ふたりの打算が際立っている」ところが、この小説に現実感を与えているように思います。しかし一方で、そうした打算をも凌駕してしまうような、存在の根っこみたいなところでお互いを必要としているという感情が高まってくるところが素敵ですよね。最後の桜子が土下座するところは、普通に考えれば可笑しいシーンなのに不思議と泣けてきました。

ふたりの登場人物の死によって意識される、有限な時間。真織さんのエピソードを聞き、哲先生の葬儀に立ち会った桜子が、

私の命もいつか終わる。・・・
だから、すねたり、ひがんだりしている時間はない。
やりたいことをやる時間しか私にはないのだ。

やめるときも、すこやかなるときも(窪美澄)

という思いに至るのは感動します。自分の存在自体を揺るがすような傷をかかえていても、節目や傷のある木が成長してくように、しぶとく生きていくしかない。それは美しいとか素晴らしいとか称賛されるようなことではなく、生き物である以上仕方のないことなのかもしれません。

小説を読むことのいいところって、普段の生活だとあまり意識しないようなことを深く考えさせてくれることだと思います。そういう意味でこの本は、有限な時間を生きていくことの意味みたいなものを考える機会を与えてくれた作品だと思います。静かな感動に包まれながら、最後まで読んで良かったと思える本でした。

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