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赤道直下の島 ハルマヘラ島で (2)

ハルマヘラ島では1944年8月を過ぎた頃から米軍の航空機による銃撃が激しさを増していました。戦争で身近な命が次々と失われて行きます。さっき手を振って監視小舎を立ち去った友が、ものの30メートルも行かないうちに敵機戦闘機の銃弾を受けて最期を遂げます。斥候兵は密林の中でゲリラ訓練中、毒矢を受けて亡くなりました。導火線が湿って点火していないと思った下士官は、導火線に息を吹きかけた途端にダイナマイトが爆発し、木っ端微塵になりました。飲まず喰わずのところに食料が届き、流動食にしないまま食料を食べた召集兵は食べ物を気管に詰まらせ死にました。病苦のあまり自ら命を絶った学生兵もいます。終戦直前、郷里の沖縄の敗戦を知った初年兵は気が狂って脱走し、銃殺されてしまいました。みんな「テンノウヘイカバンザイ」とも言わず、「オカアサン」とも叫ばず南海の孤島でひっそりと朽ちていきました。

ハルマヘラ島 拡大

戦争で数多くの命が海の底へと沈んでいきました。
米軍は真珠湾攻撃の後すぐに「対日無制限潜水艦戦」を実施。米国の100隻の潜水艦部隊は、南西諸島周辺海域をはじめ太平洋のあちこちに分かれ、日本の船団を次々と攻撃しました。米軍は暗号機により日本軍の暗号を全て解読していた為、輸送船の動きなども読まれていました。南の島へと向かう輸送船は魚雷を機関部に受け、大きな火柱とともにあっという間に沢山の兵士と共に海の底へと消えて行きます。米軍の潜水艦による数々の撃沈の事実が日本の情報統制によって伏せられていたこともあり、魚雷によって多くの船や命が失われました。

ハルマヘラ島 兵器倉庫と野戦病院

礒永が監視を任されたカタナ渓谷の兵器倉庫の山向こうには野戦病院がありました。グルワの海岸では米軍の上陸に備えて毎日壕堀り作業が行なわれていましたが、肉体を酷使した重労働によって兵士が次々と倒れていきます。兵士の殆どが食料不足で飢えていました。それが原因で脚気・悪性腸炎などが蔓延し、また南の島特有の戦病である結核、マラリア、赤痢、コレラ、デング熱、熱帯性潰瘍 、脚気、腸チフス、暍病(日射病と熱射病の総称)などに感染した兵士が野戦病院へと運ばれました。

野戦病院では負傷や感染症の悪化によって多くの患者が亡くなりました。治療によって回復した兵士たちは、礒永のいる兵器倉庫付近の兵舎で数日間静養し、元気を取り戻すと川沿いのジャングルの道を下ってグルワへと戻って行きました。

ある日礒永は、野戦病院からマラリアで亡くなった戦友の遺体の受領に来るように連絡を受けました。大男だった戦友は痩せ細って死んでいました。軍医はメスで遺体の手を切り取ってパラフィン紙に包み、飯盒の中に放り込んで渡してくれました。遺体を毛布に包んでバナナ林に穴を掘って埋葬し、右の手は焼いて遺骨を取る様にとの指示を受け、衛生兵の手を借りてバナナ畑に埋葬しました。手を焼く作業は、敵に煙が見つからない様、もやのかかる時間帯を選び、密林の奥で半日かけてゆっくり行われました。焼いた後に残った小さな骨は、携帯燃料の空き缶に入れて持ち帰ります。以前は片腕一本を火葬していましたが、燃やす時間を短縮する為、片肘へと変わり、やがて手首になり、最後には指1本に変わって行ったといいます。

バナナ畑に戦友の墓標を立てに行きました。瞑目して合掌するのですが、こういう時のために死者の冥福を祈る経文の一つでも覚えておけばよかっと、為す術の無い自分をなさけなく思いました。

渓谷の木の間から海を眺めては口ずさむ詩がありました。それは自分の生命をはたして何に、そして誰に捧げるのかという自問自答の詩でした。

それを秘かに『絶唱』と呼び、自分の墓碑銘にと心組んでいました....。

絶 唱

 海原の
うしおの果てに咲く花の
白きを
今日は
誰に捧げん


戦況はますます悪化して行きます。

1944年7月7日。サイパン島の日本軍玉砕。これによって米軍は、マリアナ諸島の各基地にB-29爆撃機を配備し、日本のほぼ全域を無着陸で空襲できるようになりました。

1945年3月10日。B-29爆撃機による東京大空襲。それに続いて名古屋、大阪、神戸、横浜への夜間無差別焼夷弾爆撃が続き、各都市の大部分が焼け野原となります。

1945年3月22日。 硫黄島の日本軍玉砕。米軍は航続距離の短い戦闘機でも日本への空襲ができるようになりました。

1945年3月23日。沖縄戦開始。
1945年4月7日。硫黄島に配備した米軍戦闘機による空襲開始。B-29は関門海峡や主要港湾へも大規模な機雷投下を行い、日本の海上輸送を妨害します。

もはや日本に勝利の道はありませんでした。

1945年8月6日。広島に原子爆弾投下。
1945年8月9日。長崎に原子爆弾投下。
1945年8月14日。日本はポツダム宣言を受諾。無条件降伏。
1945年8月15日。正午には天皇による終戦のラジオ放送が流されます。

ハルマヘラ島では海外の無線を傍受した通信兵が終戦を知り、その後、通信隊長が日本兵に日本の無条件降伏を正式に伝えました。
8月16日には飛行機から『ポツダム宣言』や『天皇の命により終戦』『日本軍将兵に告ぐ。貴方たちは武器を捨てて家に帰るのを待て』などと書かれたビラが播かれ山間部の日本兵にも終戦の知らせが届けられました。やがて連合軍が上陸。武装解除が行われます。全ての武器弾薬が集められ、海の中へと捨て去られました。
治安のことを考え、朝鮮人や台湾人が先に祖国に返され、日本人たちは自活生活を行いながら日本に帰る船を待つことになります。

終戦から9カ月後の946年5月24日。
ハルマヘラ島を出発する日がやってきました。
礒永を乗せた船は赤道直下のハルマヘラを離れ11日間かけて、祖国日本。和歌山県田辺港へと向かって行くのでした...。



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