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私が偽善者になったとき―失語症の人々と言語聴覚士の美馬さんが気づかせてくれたこと

2016年の冬は、文化人類学者を志してから10年と少しが経過した時だった。

自分も少し人の話を聞くことが上手になってきたのでは、と思っている時期である。

でも私はまさにその時に、奥底にある偽善に満ちた自分にいやおうなく向き合うことになってしまった。

今回は、2015年6月に出版した『医療者が語る答えなき世界—いのちの守り人の人類学』(ちくま新書)の取材中のお話です。美馬さんは「共鳴—旅する言語聴覚士」に登場する言語聴覚士さんで、お名前は匿名です。

失語症?

2016年の冬、私は言語聴覚者の美馬さんが主宰する、失語症当事者のためのグループワークを見学させてもらっていた。

とはいえ、失語症といってもよくわからない人が多いと思うので、本題に入る前に少し解説をしておきたい。

失語症とは、脳梗塞や交通事故による脳障害などの後天的な脳の傷害により、言葉を理解したり、話したり書いたりすることを通じて言葉を表出することが困難になる病気である。脳のどこが障害されているかによって、症状は異なるが、ざっくりいってしまうと言葉をよく理解できなくなったり、言葉の組み合わせを誤ったり、言い間違えをしたり、言いたい言葉がなかなか出てこなかったりといった問題が起こる。

とはいえ、相手の言っていることがよくわからなかったり、言い間違えをしたり、口元まで言葉が出かかっているのにそれがなかなか出てこないという経験は、失語症の人々に限らず、多くの人が日常生活で経験することであろう。

私自身、失語症の方々に実際にお会いするまではそれがどのような病気なのか、そこにどのような難しさがあるのか、はっきりと理解できずにいた。しかしこのワークショップがきっかけで、かれらの抱えるむずかしさを少しだけ垣間見ることとなる。

そのワークには、美馬さんともう1名の言語聴覚士が主催する90分のワークショップであり、参加者は重症度別に小さなグループに分かれ、提示されたお題に沿ってワークをしていた。参加者は男女合わせて10名ほどであり、年代は50代から上の世代が多かった。

ぱっとみの外見からは、かれらが当事者であることは全くわからない。また、かれらが話している言葉を小耳にはさむ程度でも—重度の参加者はそもそも言葉をあまり発しないということもあるため—ふつうに会話ができているように思えてしまう。

しかしワークが始まりしばらくすると、かれらのかかえる難しさが少しずつ見えてきた。

軽症者のグループのお題はバレンタインデーであり、それについて何か話すことが司会者から順に促される。

ワークが始まると、60代くらいの女性の参加者が次のように話しを切り出した。

「チョコレートの…うーん…周りにね…あれがはさまっていたやつを食べて…。」

司会を務める美馬さんが、ホワイトボードを使いながら、文字を書きつつ質問をしてゆく。すると彼女が言いたかったのは「イチゴの周りにホワイトチョコがかかっているチョコレート」であることがわかった。

「イチゴ」という単語がなかなか出てこないだけでなく、「イチゴの周りにチョコレート」と言うべきところを「チョコレートの周りにイチゴ」と言葉の順番をひっくり返してしまっているため、意味の分からない文章になってしまっていたのだ。

会話を引き続き聞いていると、言いたい言葉がなかなか出てこなかったり、単語の順番を間違えてしまったりするだけではなく、「ポリフェノール」と言おうとしたところを、「トリフェノール」といってしまったり、「娘がガールスカウトに入っていて」と言おうとしたところを、「娘がボーイスカウトに入っていて」と言ってしまったり、といった間違いが頻繁にみられることがわかってきた。

ダーツを何本も投げるのであるが、すんでのところで的から外れてしまう。そんなイメージである。

一方、こちらのグループより重度の参加者が集まったグループでは、カードにかかれた漢字を組み合わせて県の名前を作るワークを行っていた。一人の参加者は、「千」+「葉」か「千」+「福」でかなり迷っている一方、もう一人は「森」「青」の順番でカードを組み合わせて静かにしていた。順番がひっくり返っていることには気づいていないようである。そのまた隣の参加者は「愛」と「山」を組み合わせていたが、彼もまた間違いには気づいていないようであった。

参加者同士の助け合いで、最終的にはみなが正しい県名を作り上げることができたが、そこに至るまでには15分程度の時間がかかった。このグループの特徴も先のグループと似ているが、明らかに違いがあったのは、ダーツが的から外れたことに気付かない人が多いという点である。自分の言葉の誤り間違いに気づかないことは重度の失語症ではよくあることであるという。

そして私は、あの偽善の一言を発した

ワーク終了後、美馬さんが、「何かみなさんに質問をしたいことがありますか?」と訊ねてくださった。そこで私は、「言葉に難しさを抱えてから、つらかったこと、悔しかったことはありますか?」という質問を投げかけた。
すると、それまで和やかだったグループの雰囲気が一瞬張りつめたものに変わった。そしてしばらくの沈黙の後、ワーク中は、終始、笑顔で冗談を言っていた男性が、「ほんとうにここまで言葉が出てきているんだけど、出ない。そこにあるのに言葉にならない」と話した。皆がその言葉に深くうなずく。

そこで私は、「本日参加させていただきましたが、皆さんのおっしゃっていることよくわかりましたたよ」と返した。

するともう一人の男性が、「頭にぱっ、ぱっ、ぱっと浮かんだ言葉でしか、話せない。ここだとよく考えてから話すようにできるけど、家にいてそんなに考えていない時は、孫におじいちゃん話し方変だよ」と言われてしまうと話す。ここでもまた、参加者は大きくうなずいていた。

私はグループの雰囲気を変えてしまったことにためらいを覚えながらも、質問の後にふっと変わった会場の雰囲気、そして発言の後に少しうつむきながらも大きくうなずくみなさんの表情が私の胸を突いた。

かれらは外から見ている分には失語症を抱えていることはわからない。だから突然言葉を自由に使えなった後、馬鹿にされたり、おかしな人と思われたり、ときには認知症と誤診されたり、そういう経験があることは話では聞いていた。でもそんな耳学問よりも、その時の会場の沈黙が言葉が不自由になることをつらさと苦しさを表しているように、私には思えた。

しかしその後の美馬さんとの会話で、「皆さんがおっしゃっていたことわかりましたよ」といった自分の一言がいかにイタいものだったかを、いまでもその時の情景を細かく思い出せるほどに、心に刻みつけることになる。

それは「頭にぱっ、ぱっ、ぱっと浮かんだ言葉でしか、話せない。」と参加者の男性がいっていたことについて、もう少し詳しく教えてほしいと、私が美馬さんに聞いたことがきっかけだった。

美馬さんは次のように教えてくれた。

失語症にはいろいろなタイプがあり、その中にはターゲット、つまり、言いたい言葉になかなかたどり着けないタイプの失語症がある。たとえば「ボールペン」と言いたいのに、近いけど違う言葉である「鉛筆」しか浮かばなかったり、言いたいことを簡潔に言えず、その周辺をぐるぐる回るような話し方をしてしまうこともある。彼の言いたかったことは、言いたいことはもっとあるのに、そのものずばりを突くようなことがいえず、頭の中に浮かんでくる、そのものずばりとは少しずれた単語を使いながらしか話せないことのもどかしさを言っていたのではないか。

美馬さんの答えを聞いた私の脳裏には、留学中の強烈な不全感が浮かんだ。留学1年目の私はネイティブがネイティブに向けて話す英語に全くついていけず、自分の自尊心を根こそぎ持って行かれるような経験をよくしていた。

周りのアメリカ人の友人は、「私のいうことわかるよ」と言ってくれていた。

でもそんな言葉は、私にとって何の慰めにもならなかった。私は目の前のゾウが、どんなさみしそうな眼をしていて、どんな風にしっぽを動かしていて、どんな風の中で身体をゆらゆらさせているのかを、日本語ならありありと表現できる。でも英語になったら「耳が大きくて、鼻の長い動物が、草をゆっくり食べている」くらいのことしか言うことができない。(比喩です)

自分が見えている世界の輪郭をあまりにも幼稚な形でしか表現できないのに、それを「わかるよ」と言われてしまう。

「私がほんとうに感じているものはそれじゃない。」

私の抱えている不全感はそれだった。だから「わかるよ」と言われるたびに、自分の能力を過小評価されたような悔しさを感じることが何度もあった。

美馬さんの説明を聞く中で、私はそのことを思い出した。そして「皆さんの言っていることがわかりますよ」という言葉が、実は偽善に満ちた言葉だったことを、ようやく思い知った。

「私はあなたのことを馬鹿にしたりしてませんよ」、そんな自信に満ちた言葉で発したあの一言の中こそが、かれらの尊厳を傷つける言葉だったのではないか。

当然のことながら私とかれらの経験を同じものとして語ることはできない。

私は母語は十全に使えるという感覚もあるし、母語を話すことが逃げ場にもなる。また英語は努力をすれば伸ばし続けることができる。

これはかれらもリハビリをすれば同様であるが、脳が生物学的に損傷してしまい、病気の前と全く同じ状況に戻ることはきわめて困難なかれらの状況とは全く異なる。

しかし私の留学時代の経験とかれらの経験がかぶるところがあるのであれば、私が発したひとことはかれらのフォローになるどころか、むしろかれらを見下した発言になる可能性を感じるべきだった。

私の言葉は表面上はやさしがある。でもそれだけだ。その底辺には、「私はあなたを助けてあげる立場です。私の方が人間として十全です。」、そんな欺瞞に満ちた心があった。

理解したとか、共感した、と思った瞬間が一番危ない。

それを忘れないための1つのエピソードです。

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