見出し画像

「あなたもきっと経験がある『当事者マウンティング』の暴力性と誘惑ー「わかっている」感覚ほど危ない?」の記事に対するご批判への回答

 私が8月29日に現代ビジネスに寄稿した記事は、思った以上の広がりをみせました。しかしその一方で、私がその中で使った「当事者マウンティング」という言葉が、マイノリティあるいは弱者の言葉を封じる危険な言葉であるというご批判とご心配が一部の方から寄せられました。

 それについての著者からの説明をここでさせていただきます。

当事者の定義について

 
 ご批判をくださったみなさまは、記事の中での「当事者」は、弱者あるいはマイノリティを指すと考えられたようです。一方私は記事において、「当事者=弱者・マイノリティ」という位置づけはしておりません。むしろ誰もが何かの当事者である、という観点から記事を書いています。

 歴史上、「当事者=弱者・マイノリティ」いう大まかな位置づけがあることは事実です。ですが「当事者=何かについて経験がある人」というフラットな捉え方もあり、実際その意味で使われていることも多いと思います。

 したがって現代ビジネスは、ビジネス系WEB媒体あるため、読者の方は、後者の意味で「当事者」を捉えるだろうと推定し、書き進めました。

 正確性を期すならば、当事者運動の歴史について書くべきだったかもしれません。しかしこの歴史は長く、加えて、当事者運動に関わってこられた方たちの中で、「当事者=マイノリティ・弱者」という認識が常に保持されていたわけでもないと思います。むしろ真剣に当事者運動に取り組んでいる方こそ、「当事者とは誰か」という問いを自身に対して、ご自身が活動されるフィールドの中で発信し続けてきたのではないでしょうか。

 したがって、これら歴史とその中での問いを記事に入れ込むと、内容が膨大になってしまいます。通勤の途中やちょっとした空き時間に読むWEB媒体にはそぐわないと判断しました。

マウンティングという言葉を使った理由について

 私がここでもっとも主張したかったことは、Aについての自分の経験と、相手の経験の総量を比較し、経験の総量の上で劣る相手に優位に立つため「あなたにAのことはわからない」と宣言してしまうことの危険性です。

 相手よりも知識と経験があるという確信を持った人間が、そうでないと確信する相手に向かって放つ言葉は、「知らないお前は黙っていろ」・「知ったようなふりをするな」という、攻撃的かつ制圧的な言葉とふるまいになりやすいと思います。

 したがって、このような状況に対してマウンティングという言葉を当てることは誤りではないと考えます。そしてこういう状況は現実の世界で起こっていると思います。

 しかし「マウンティング」は強い言葉であり、ともするとご批判にあったような受け止め方をされる可能性もあります。したがって、私がどのような意味でこの言葉を使っているのかを、具体例に埋め込み、使い方を限定し、丁寧に説明することで、ご批判にあったような懸念は最大限避けられると判断しました。

 そしてそれは、記事で繰り返し書いているように、「当事者は声を上げるな」という意味では決してありません。

 もちろんやっとの思いで絞り出した最初の第一声が「あなたに〇〇のことはわからない」である可能性もあるでしょう。しかし私はそのような限界状況について語ってはおりません。その一言に対して「当事者マウンティングはやめて」というのは明らかに誤用です。

 これは、私が当事者マウンティングの例として上げているのが、(あえてこの言葉を使えばですが)強者から弱者へのそれであること、日常生活の中で起こりがちなものであることをご確認いただければ明らかかと思います。

誤用の可能性について

 しかしこの記事に関するご批判は、私がこの言葉をどういう文脈に埋め込もうとも、その文脈を超えて、言葉自体が悪用される可能性があるというものでした。

 私は、どのように使えば適切で、どのように使えば問題になるかを議論するのではなく、「とにかく危険」という観点から批判が進むことは残念です。

 なぜならこの記事を読んでくださった方の中には、「当事者=弱者・マイノリティ」ではなく、「当事者=自分」と捉え、その上で、ご自身の生活を振り返ってくださった方もいるからです。

 「自戒を込めて」という言葉と共に拡散に協力してくださった方もいます。「当事者マウンティング」という言葉だからこそ心に沁みた、と言ってくださる方もいらっしゃいました。

 このように読んでくださった方たちは、私の記事を、弱者・マイノリティの声を封じるためのものとしては読まれてはおりません。むしろ、そうならないための処方箋としてこの記事を読んでくださっています。

 このようなプラスの面もあるため、私の展開した文脈から「当事者マウンティング」という言葉を完全に切り離し、その上で、この言葉を想定しうる最悪な文脈の中に埋め込むことによって、この言葉の残酷さを示すことを是とする方がいらっしゃることを私は悲しく思っています。

 私の言葉が危険というのであれば、著者の意図と乖離した悪用事例を広くシェアできる形で流すことも、また同様に危険なのではないでしょうか? 私はそれこそ危険と感じますので、私の論旨を汲んでいただけるのであればやめていただきたいと思っています。

 どんな言葉も使う文脈を間違えれば危険を生むと思います。決して使ってはならない文脈もあると思います。だからこそ発案者は自分の使った言葉にどのような意味があるのかを、誤用を防ぐためにきちんと説明する必要があります。

 しかしそれでもなお発案者の意図を超え、悪意を持って使われる場合もあるでしょう。そしてその場合の責任が、発案者にすべて帰するとなるのであれば、新しい形で現象を切り取ること自体に困難が生じると思います。

 現代ビジネスの担当の方からは、記事に対する反応は共感や好意的なものが大多数と伺っております。悪用の可能性だけでなく、ポジティブな面も踏まえて頂き、どういう時なら使えて、どういう時なら使えないかという形で議論を進めることは難しいでしょうか。なぜこの記事が賛同を得たのかも併せて考えていただく事は難しいでしょうか。

 繰り返しになりますが、私の論点は、経験の総量を根拠にしてある事象全体を「わかる」と主張し、それによって経験総量の少ない他者を黙らせ、対話を断絶させることの危険性にあります。

 私はそれに関しては、多くの人が自分のことを語る機会を得ている時代だからこそ議論されるべき課題であると考えています。

<下記は記事の論旨から外れますが、ご指摘に対する私の考えを知っていただくために重要かと思いますので書き添えます>

 私は、いまの社会において、ある人が「何かの当事者である」と宣言することそのものが、力を生むと考えています。それは聞いている側の佇まいを一瞬で変えるような強力な何かです。

 その力は、その人自身さらには同じ境遇にいる他者を救済する力かもしれません。あるいはその力を恐れ、それを抑えようとする新たな力を生みうる力かもしれません。もしかすると、当事者性を持っていない人を黙らせるほどの力の獲得かもしれません。

 当事者とは弱者であり、マイノリティであるという視点は大切だと思います。しかし以上のような考えから、それを前提にすることもまた問題だと思うのです。

 当事者であると宣言することで、当事者であることを宣言していない人より強い力を獲得することはないでしょうか?

 社会的に当事者として語りうる属性を持たないゆえに、苦しさが聞かれない、あるいは軽んじられることはないでしょうか?

 またその人がなんらかの過程で弱者でなくなったら、その時点でその人は当事者卒業になるのでしょうか?

 当事者イコール弱者・非当事者イコール強者という構図が、本当は強者でも何でもない非当事者に、当事者の言うことはとにかく引き受けねばならないという空気を作り出すことはないでしょうか?

 当事者=弱者・マイノリティという構図が、その人を永遠に社会に周縁に置き続け、その地点からしか声を発することができない。そういう結果を生むことはないでしょうか。

 もちろん360度弱者でマイノリティという方もいるでしょう。その上で助けが必要な人もいると思います。

 しかし世の中の多くの人はそうでないはずです。 多くの人たちは、ある場面ではマジョリティであり、ある場面ではマイノリティであり、ある場面では弱者で、そして強者ではないでしょうか?

 したがって当事者イコール弱者•マイノリティを出発点としてしまうと、むしろそこに大量の非当事者がつくられ、その結果、当事者になれないゆえのもどかしさ、あるいは周縁でなければ声を持てない奇妙さを作り出すと思うのです。

 当事者の力は救済から、マウンティングというベクトルにまで幅広く現れうる。それでは後者のベクトルに向かないためにはどうするべきか。

 それを考えるためには、後者の状況を語りうるプラットホームが必要だと思います。

 確かにこれは誤解を生み、本当に困ってる方の声を封じる危険性を孕むかもしれません。ですが、それは言論と運動の中で、そうならないように努力するべき話ではないでしょうか?危険があるから、当事者の力が負の方向に働くことは公には語らない。それが理想のあり方なのでしょうか?

 私が見たご批判・ご心配は、当事者イコール弱者・マイノリティという観点から出発をしていました。しかし私は以上の理由で、その出発点に疑問を感じています。

 長くなりましたが、以上をもちましてご批判・ご心配に対する私の返信とさせていただきます。

 お読みくださったことをお礼申し上げます。

著者

お読みくださりありがとうございます。いただいたサポートは、フィールドワークの旅費、書籍購入など、今後の研究と執筆活動のために大切に使わせていただきます。