見出し画像

9月8日

何から書けばいいのだろう。
いま、私は医師の話を聞きに病院へ向かうところだ。19日前の日曜日に、母は都内の大学病院に入院した。前々日、否、そのさらに前の日から、母の様子はおかしかった。ヘルパーさんに同行してもらって父を別の医大附属病院へ連れていき、暑さの中の帰り道、最寄り駅に着くと母は歩けないと言い出したのだ。
父を伴っての外出は、(いや私やヘルパーさんを伴っての父の外出、だが)いつも大変なストレスで、今回はそれが2日続くとあって、既に私はかなり参っていた。もっと言うならば、それより2、3ヶ月も前からずっと、私はよく寝ていなかった。常に心身は疲労していた。
だからというのは言い訳だが、母が歩けないと言った時、わたしはそれが重要なサインであると気づかなかった。歩けないのはこの尋常でない暑さのせいだと思ってしまった。
母を近くの車のショールームの木陰に座らせて、まずは父を家に連れ帰り、ベッドに寝かせたあと、2台ある車椅子の小さな方を押して母を迎えに行った。ここでいいからと仏間の畳に横になった母に、枕代わりのタオルをあてたりしながらも、それが救急搬送の必要な事態とは思わずにいた。
その日の晩、母を支えながら寝室のある二階に上がるのに一時間近くかかった。それでもなお私は、父を二日連続で外出させなくてはいけない緊張でいっぱいのまま、母は家で休ませればそれで良いと思っていたのだ。

母は脳梗塞を起こしていた。
いのちをとりとめ、言葉も失わず、体の麻痺も日を追ってそれなりに回復してくれたことは、ただ有難いと思うしかない。医師から説明を受けながら見た、MRI画像の恐ろしさと美しさ。脳内の血流が黒地に白く浮かぶ。母はまだ絶対安静の状態で、わたしは一人で複数の医師と看護師に囲まれて話を聞いた。先生はとても滑らかに、丁寧に解説してくれた。わかりやすいだけに、とても悲しくおそろしい思いが全身に満ち、溢れる寸前のところで水位を保っていた。
家には父が待つ。ヘルパーさんの来る前に帰らなくては。

ベッドから半身を起こすことさえ制限される日々が続いた。横たわって上を向いたまま母は「おじさんが来たら」とわたしにあれこれと指示をする。夢うつつ、でもなく意識は冴えているようだった。父の郷里から伯父が父に会うため来ることになっていた。100%以上の歓待をする気でいた母は、心もとないわたしに言葉を重ねた。父を、家で看続けようと決めたばかりだった。自分はベッドから動けない。こうなった事態への苛立ちをにじませたり、父に会いたいと涙声で言ったりした。

母の枕元の壁には、A4サイズの紙に「左麻痺」とマジックで書いた紙が貼られていた。


いただいたサポートは災害義援金もしくはUNHCR、ユニセフにお送りします。