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『アリスとテレスのまぼろし工場』感想~「生の実感」はどこにあるか?~

※ 核心に触れるネタバレは避けていますが、本筋への言及はあります。

 『アリスとテレスのまぼろし工場』を見ました。間違いなく面白かったのですが、同時に非常に複雑な作品でもあったと思います(この感想もどう順序立てて書いたらよいものかを思案しながら書き始めています)。

 岡田磨里さんが監督・脚本を務めるのは2018年の『さよならの朝に約束の花をかざろう』以来。もともと『あの花』等の脚本で著名な方ですが、この『さよ朝』が人生唯一円盤まで買ってしまったアニメである程度には刺さってしまった私にとって、5年ぶりの監督・脚本作品となる本作は待望も待望の作品でした。
 ゆえに上映したその週末にすぐ鑑賞してきたのですが、比較的シンプルな感動ストーリーである『さよ朝』のような作品を期待していた自分にとっては、思ったのと違うものをお出しされたというのが正直な感想です。しかしながらそれは決して「期待外れ」を意味するものではなくてでして、今この時代にこの作品が世に出ることはとても意味がある、そう思わされる作品でした。

1.あらすじ

 主人公は、大きな製鉄所に支えられた地方都市に住む14歳の少年、正宗。彼は友人らと変わらぬ日常を送っていましたが、ある日製鉄所で大きな爆発が起こるとともに、空に大きなひび割れのような模様が浮かび上がります。しばらくすると製鉄所も空の模様も元通りになるのですが、この事件から一夜明けると、町は外に出る道が全て塞がれ、季節は冬のまま変わらず、人々は永遠に成長せず、また老いないようになっていました。町全体が、外界からも、時間からも締め出されてしまったのです。

 事態に気づいた町は最初混乱するもの、やがて「このまま何も変えなければいつかもとに戻る」「戻った時に支障がでないように、自分を変えてはならない」という考えが人々の間に広まります。そして、その実践として、町民は考え方や趣味、さらには髪型すら変えることを禁じられ、同じ日々を、同じように送ることを自らに課すようになっていくのです。
 正宗はその日々の退屈さに当然辟易していくのですが、ある日クラスメイトの女の子である睦実に連れられ、立入禁止になっている製鉄所に足を踏み入れます。そこにいたのは、言葉を話せず、感情を剥き出しにして暴れている野生の猿のような少女。この少女だけはなぜかこの世界でただ一人成長をしており、特別な存在としてここに閉じ込められていたのです。

 この少女は何者なのか。なぜ、この世界は外界からも、時間からも締め出されてしまったのか。その謎が徐々に解き明かされるとき、止まっていた正宗の人生が大きく動き出すのです。

2.『すずめの戸締まり』と似た視点 

 まず序盤の展開で率直に感じたのが、舞台設定の問題意識が新海誠の『すずめの戸締まり』(2022)に似ているなということでした。

 『すすめの戸締まり』は、九州のさびれた観光地に住む少女すずめが日本各地をまわり、大地震を引き起こす「ミミズ」を鎮めていくロードムービーです。そしてその作中ですずめがミミズを鎮めるべく訪問するのは、打ち捨てられている田舎の学校校舎であったり、既に閉園し廃墟となりかけている遊園地であったりと、かつて栄えていたが、今はもう衰退してしまった日本各地の土地のすがた。そうした土地を巡る旅を昭和の懐メロをBGMにして描いていく当該作は、かつて元気であったころの日本という国へのノスタルジー、それと同時にノスタルジーにただ耽溺するのではなく、そういう日本のすがたを直視して、しっかりと供養(=戸締まり)していく覚悟が感じられる作品でした。

 本作にも、そういう「地方」に対するノスタルジーが通底していると思います。本作で描かれる町も、町の雇用を支える製鉄所こそあれ、学校の生徒は多くはなく、生徒たちが通うゲームセンターをはじめとする施設もとても古く、決して元気いっぱいであるとは言えない風景が広がっています。そんな町を舞台にして、「このまま何も変えてはならない」と自らに課し、終わらない日常に浸る大人たちが描かれていく。かつてほど元気にはなれない日本のすがたと、それをそのままにしながらゆっくりと時間が費やされていくそのさまは、まさに『すずめの戸締まり』が描き出し、また「戸締まり」をもって克服しようとした問題と同じ性質のものだと思いますし、この「止まった世界」の謎を解き明かしていく本作も、ストーリーが進むにつれて、やがてはこの問題への対処を迫られることになります。

3.「生の実感」はどこにあるか?

3-1.生かされているが、生きているだけ

 しかし、日本という風土の「戸締まり」をメインテーマの一つに据えていた『すすめの戸締まり』と違って、この『アリスとテレスのまぼろし工場』は確かにそうした問題を扱ってはいるけれども、それそのものをメインに描きたい作品であるというわけではなかったように思います。より具体的に言うならば、この『アリスとテレスのまぼろし工場』という作品において、この「衰退していく風土」という問題意識はそれ自体主題なのではなくて、もっと別のところにある本作のメインテーマを導くための、舞台装置の役割を果たしているのではないかと、そういう風に思います。

 では、その本作のメインテーマとは何なのか。正宗という14歳の少年を主人公に据えていることともつながるのですが、それはやっぱり「少年少女の生き様」なのです。

 「近頃の若い者は~」という言葉は古文にも見られる、というのはよく言われる話でして、いつの時代も若者というのは年長者からうるさく言われるものです。近頃の若者は勉強しない、ちゃらちゃらしている、道徳がない、などなど・・・。最近では「Z世代」なんて名前でもてはやされたりすることもありますが、映画を倍速視聴したりYouTubeで教養のような何かを身に着けようとするような若者の「タイパ重視」や、人生のうまくいかなさの原因を親に求める「親ガチャ」なる流行語が賛否両論を受けるのは、まさに現代の「近頃の若い者は~」の理屈です。

 じゃあ若者はいつの時代も同じような生き方をしているのか?というと、それはそれで真実ではないと思います。もうアラサーで若くはない私が想像するにですが、この今の時代の若者って、ものすごく「生き方をちゃんと決める」のが難しいんじゃないかな?と思うのです。
 まず、この国は幸い明日食べるものも困るような若者が多数いるというような状況ではありません。すなわち、基本的に今の若者の多くは(特に親から一人立ちする前は)生活の継続を保障されていて、生きるためにはとにかく日銭を稼がなければならない、というような喫緊の必要に迫られているわけではない。では日々バラ色なのかと言うとそうでもなくて、まさに上記のとおり、この国はもう決して元気ではなくて、今の生活が好転していくような気配はない。社会のニュースはなんだか暗い話ばっかりだし、勉強していい会社になってもパワハラや薄給で苦しんでいる人はたくさんいるし、結婚もどうやら人生のゴールインでも何でもない。「王道」と言えるような生き方がなくて、何を目指せばいいのかわからない。
 生きるのに困らないが、どう生きればいいのかに困る。言わば、「生かされているが、生きているだけ」。そういう状態を強いられているのではないでしょうか。

 そういう風な視点から本作の設定を改めて眺めると、本作で正宗たちが置かれている状況というのは、ものすごく「今風の若者」のように見えるのです。外界や時間から切り離されているこの町には決して破滅は訪れません。だから正宗たちは生活を絶対的に保障されています。しかし、外界や時間から切り離されているがゆえに、今の生活が今よりもよりよいものになることも決してない。だから、何を目指して生きればいいのか全くわからない。それを導くことは大人の役割なのですが、正宗は大人たちから「過去のまま変わるな」と言われるばかり。これは導きどころか、例えばもうサラリーマンになっても安泰とは限らないこの令和の時代に、昭和の価値観のまま「勉強してサラリーマンになりなさい」と言われるのと同じです。そういう「ただ生きているだけ」という苦しみが、正宗にもあるのです。

3-2.「正しさ」ではなく「情感」を

 ではそういう「生きているだけ」の若者は何を求めるようになるのかというと、どうしようもなく、刹那的な、目の前にある快楽を求めることにつながってしまう。大麻に手を出してみたり、目の前の大金を求めて闇バイトに手を出してみたり、「若さ」というブランドを使って身の危険を冒しながらパパ活をして稼いでみたり、趣味(推し)に身の丈以上のお金を費やしたり・・・ そういうひたすらに刺激の強い「快」が、生きているだけの若者に、つかの間の「生の実感」を与えるのです。
 本作序盤でも、ちょっと今の感覚ではやりすぎかも?と思えてしまうほどクラスメイトの女子の身体を性的にとりあげて話す男子だったり、屋上から下にいる男子に自分のスカートの中を見せる女子だったり、そういう少し目を背けたくなるような描写が入ります。あるいは、高いところから飛び込んで自分の身体を痛めつけたり、首を絞めて気絶させ合ったり、そういう遊びが男子の間で流行っているような描写もなされていく。こうした少年少女の危うさもまた、上記のような若者の刹那的な生き方を、連想せずにはいられないのです。

 だから、大人たちが若者を導こうとするのであれば、ただ生活を保障するだけでは足らず、この「生かされているが、生きているだけ」という独特の苦しみを理解しないといけない。そしてその苦しみを上書きする「生の実感」を、刹那的な快楽に頼ることなく、彼ら彼女らが享受できるようにしなければならない。それが、大人たちに求められる新しい責務なのかな、と思うのです。
 そしてこのとき大人たちが提供するべきは、説教くさい賞味期限切れの「正しい生き方」ではありません。「実感」が問題なのですから、理屈・理論の上に成り立つ「正しさ」だけではなくて、何か情感に訴える「熱さ」(あるいは「エモさ」?)が必要になる。そういう、難しい問題が今私たちの前に横たわっているのだと思います。

そして、本作が2時間のストーリーを通して行う営為は、まさにこの「実感」を巡る探求なのです。正宗は製鉄所に閉じ込められた少女との出会いをきっかけに、この世界の真相に、そしてこれまで自分でも気づいていなかった自分の心の中に眠る思いにだんだんと気づいていきます。そして、最終的には「生の実感」を得るに至るのです。
 では、最終的に正宗をその「実感」へと至らせたものは何だったのか、というのが重要になるわけですが、その答えは言ってしまえば、「恋する衝動が、世界を壊す」という本作のキャッチコピーが既に示しているとおり、恋です。正宗は恋をすることで、最終的に「生の実感」を得るのです。

 なんだそれは、あまりにも月並みすぎるではないか。そう思った方もいるでしょう。
 しかし、それでいいんだと私は思います。繰り返しますが、「実感」は「正しさ」の問題ではなく、「情感」の問題なのですから。これがあれば誰もが「生の実感」を得られる、というような唯一絶対の正解など存在しません。人によっては仕事に、人によっては趣味に、そして人によっては家族に、そして人によっては恋に。それを得られるきっかけはひとそれぞれなのであり、問題はそのきっかけから得られる情感の強さなのです。そして本作のストーリーは、正宗が「恋」を通して得た「生の実感」の強さを、克明に表現していることに成功していると思います。この描写は、「恋」に興味がない人に対して、「恋は生の実感をもたらす」と感じさせることはできないでしょう。しかしながら、「生の実感をもたらすものは、刹那的な快楽以外にも確かにある」ということは伝えられる。そういうふうに思うのです。

 そしてそのことを伝えられたとしたら。それはおそらく、この時代に大人が若者に伝えられることの全てであり、この作品はその役目を全うしたと言えるのだと思います。

 なかなか万人受けする作風ではないかもしれませんが、ぜひおすすめしたい作品です。

(終わり)


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