『リコリス・リコイル』雑感 ~理不尽は人間の顔をしている~

 『リコリス・リコイル』を最終回まで見ました。めちゃくちゃ面白かったですね。

 最初は話題になっているという理由だけで軽い気持ちで見ていたのですが、中盤以降に入りますと一転非常に骨太なストーリーに。いろいろ考えさせられながら、いつのまにか毎週気合を入れて視聴するようになっていました。そのテンションのままの感想文です。

1.「リコリスという環境」の風景化

 何から書いていいものか迷うところではあるのですが、まずこの『リコリス・リコイル』について私が特徴的だと感じたところ、それは「リコリスという環境」の悲劇性が、本作ではほとんど強調されていなかったことです。

 リコリスとは、DAなる治安組織が従える暗殺エージェントであり、そして、孤児だったところを拾われ殺人技術を身に着けさせられた少女です。彼女らは職務を果たすことでその生活を保障されているようですが、その肝心の職務は過酷そのもの。実際に作中でも、多数のリコリスたちがその命を落としています。

 であるならば、本作はそのドラマ性をリコリスたちの悲劇性に求めていくこともできたことでしょう。実際、少女たちが苛烈な戦いに身を投じ、時に命すら落としていくその凄まじい光景をドラマとして描き出した作品は多数存在します。『魔法少女まどか☆マギカ』『結城友奈は勇者である』といった有名作はその典型でしょう。また、『リコリス・リコイル』放映開始当時よく引き合いに出されていた『GUNSLINGER GIRL』も、この系にあてはまるのでしょうか。(こちらは私は未読ですので何ともいえませんが・・・)

 しかし本作はリコリスのそのような一面を、少なくともメインテーマとしては提示しません。千束のガンアクションは、彼女の戦死を予感すらさせないほど軽快に進んでいく。たきなは死の危険を忌避せず、リコリスとしてDAに復帰することをむしろ強く望んでいる。本作のエンディングにおいても、フキやサクラたちが喫茶リコリコを訪ねてスイーツを嗜む等、専らリコリスの日常の継続が示される。一歩間違えたら命を落としかねないという彼女らの境遇は、そこではその悲劇性を今更問い直すまでもない、所与のものとして描かれているのです。

 この『リコリス・リコイル』の姿勢は、一見すると無邪気に過ぎるともと言えるでしょう。死地に赴く少女たちを(もはや死語ですが)「萌え」的消費に付すことは、無神経なオタクの意識の表出ではないのか、という見方です。しかし私の印象は違います。こうした『リコリス・リコイル』の描写は、むしろ本作がそのような少女たちの環境の過酷性を、シビアに受け止めた結果の産物なのではないかと、そのように思うのです。

2.理不尽は人間の顔をしている

2-1.正義を主張することへの批判

 その理由を考えるにあたっては、まずはやはり本作最終回を参照することになります。本作の最終回では、千束と真島の対話において本作のテーゼが非常にわかりやすく言葉にされているからです。

 そのテーゼとはすなわち、「正しさ」を押し付けることへの批判です。真島がDAの存在を世間に明かしたのは、DAによるパターナリスティックな「正義」の行使を糾弾するためでした。DAは治安維持という旗印の下、リコリスを用いて特定の者を排除する。しかしその排除は、DAが抑止するところの「テロリズム」と、いったい何が違うというのか。それは一方的な暴力の行使である点で、むしろ理不尽な弱い者いじめでしかないのでないか。ゆえに真島はDAを壊滅させ、特定の強者が特定の「正義」を振り回すのではなく、市民一人ひとりが正義を考え直す原初状態を取り戻そうとしたのです。

 こうした特定の「正義」の押し付けの描写は、本作ではアラン機関(吉松)の千束に対する姿勢においても反復されます。アラン機関は「持って生まれた優れた能力を発揮し、世界に貢献すること」を最上の幸福と定義し、優れた殺人能力を持った千束を暗殺者として大成させようとします。しかしながら、千束はこれに抗い「不殺」を貫きます。それどころか、彼女は「世界に貢献すること」に必ずしも価値を見出しません。彼女は身の回りの大切な人、何気ない身の回りの風景、ささやかな日常の幸せを守るために、戦場に赴くのです。自分が大切に思う小さな価値のために戦うことは、「世界への貢献」に勝るのです。

 とはいえ、こうした「特定の正義を押し付けることへの批判」「自分にとって大切な価値のために生きること」といったテーマ性は、別段『リコリス・リコイル』だけに特徴的と言えるようなものではありません。例えばアニメからマンガのほうに目を向けますと、ここ数年「ジェンダーの多様性」をテーマにした作品が、数多く世に出ています。「男はこうあるべき」「女はこうあるべき」という考え方を排し、自分のジェンダーに正直に生きることの意義を説く作品は、まさにこの「特定の正義を押し付けることへの批判」、「自分の思うように生きること」というテーゼを辿っていると言うことができるでしょう。そういう意味で、『リコリス・リコイル』はある種時代の波に乗った作品であり、多くの人の心に訴求したのもさもありなん、というお話なのだと思います。

2―2.(広義の)正義を主張することへの批判

 本記事の本論はここからです。この『リコリス・リコイル』という作品の特異性は、上記の「特定の正義を押し付けることへの批判」をさらに先鋭化させることで、この批判自体に対して再批判を加えている点にあると思います。これはどういうことか。

 本作は、真島にDAの存在を世間に暴露させ、「DAによる正義の押し付け」を断罪しようとします。本作における日本は、世界の中でも特に平和な国であるという設定です。そしてその平和は、DAという特定の存在が、DAがこの国にとって有害だと考える者を一方的に排除することで維持されている。しかし、それはあまりにも歪ではないか。各自の正義が「バランス」よく並び立ち、そのせめぎ合いの末に立ち現れる風景こそが、健康的な世界というものなのではないか。これが真島の言い分であり、まさに民主主義的とも言えるその思想は、多くの人の共感を呼ぶものでもあるでしょう。

 しかし本作はその真島による断罪すら、その直後に重ねて断罪するのです。真島は千束との最終決戦において自身の動機を吐露するわけですが、千束はその真島の「正しさに対する反抗」すらも、一つの「正しさ」に過ぎないとする。真島がしようとしていることは、真島が止めようとしていることと本質的に同じであると喝破して、真島の計画を止めようとするのです。

 ここで千束が言っていることは、基本的に真島の主張を受け入れつつも、真島の主張よりも射程が広くなっていることにお気づきでしょうか。真島が批判するのは、「特定の正義の押し付け」です。だから彼はDAの正義という「出る杭」を打った。しかし千束は、その出る杭を打つという行為すら批判する。他人の考えを他人が圧殺することだけでなく、その圧殺を第三者が治癒することも彼女は否定する。

すなわち彼女の主張は、「正義を他人に押し付けることへの批判」どころか、(可能な限りでの)「他人への不干渉」なのです。自分が自分にとって大切な価値のために生きられたら、それだけで十分なのであり、それを他人に受け入れてもらえるかどうかも、他人がどのように生きているのかも、自分の生き方と比較すれば問題にはならないのだと。千束はそう説くのです。

 その千束の姿勢は、「不殺」という彼女の信条を、彼女が必ずしも他人に押し付けないでいるという事実に極まっていると思います。「人を殺してはいけない」なんて、誰に対して押し付けてもいいくらいの、圧倒的な「正しさ」ではないでしょうか。また、「不殺」が世界に広がれば広がるほど、その世界はきっといい世界になっていくことでしょう。しかし、彼女はこの「正しさ」がこの世に広く実現することを「押し付け」ない。リコリスを使って殺人を続けるDAの活動を積極的に止めようとはせず、せいぜい相棒のたきなの殺人を、できる範囲で止めるくらいです。

 さらに、こうした千束の不干渉は、他人に対してのみ適用されるものではありません。彼女は自らに降りかかってくるトラブルすら、自分から積極的に振り払おうとしないのです。彼女はやがて自らの人工心臓が止まるという事実を知っていながら、積極的に自らの寿命を延ばそうとはしない。あるいは、彼女のわずかな余命、そして自分を喫茶リコリコから呼び戻そうとするDAの理不尽を嘆くたきなに対して、千束はたきなに共感するのではなくて、そんな状況の中でもできる範囲で何とか明るくやっていくしかない、とたきなを鼓舞する。彼女は自らを取り巻く環境を、たとえ自分にとってそれが理不尽なものであっても、自分のために変えようとはしないのです。その千束の姿勢は、「他者への不干渉」どころか、「外的環境への不干渉」とも言うべきものでしょう。

 なぜ千束は、それほどまでに自らを取り巻く理不尽を努めて取り払おうとしないのか。結論から述べるとそれは、自らを苦しめるその理不尽には、別の誰かの血の通った生き方が、選択が隠れていることを、彼女は知っているからだと思うのです。DAが自分を呼び戻そうとすることの理不尽の背後には、それがたきなにとっての「理不尽」になったことの理由としての、「たきなが千束と仲良くなった」という事実が隠れている。千束が寿命を延ばされリコリスとして生きることを決定づけられたことの理不尽の背後には、吉松とミカの互いへの愛情と信頼がある。たとえ一見自分にとって理不尽に見えるようなことにも、その裏側には、「自分にとって不都合である」ということだけでは覆すことのできない、他人の血の通った思いが、生き様があるのです。理不尽は時に、人間の顔をしているのです。

 だから千束は、上記のとおり「自分が大切だと思う価値のために生きる」ときも、自分に与えられた人生の条件を、自らのために覆そうとはしないのです。

 では、千束は自らに与えられた過酷な運命を変えられない場合、真島に説いていた「自分にとって大切な小さな価値」を諦め、ただ受動的に生きることを選ぶのか。いいえ、そうではありません。彼女は逆に、自分に与えられた人生の条件を、いかに自分が大切だと思う価値につながるように色付けしていくか、という考え方をするのです。運命を物理的に変えることはできなくとも、それを自分が大切にしている価値に沿うように捉えなおすことはできる可能性がある。そう千束は考えるのです。

 だからこそ千束は、吉松による自らの延命の真相をミカから聞いた時、暗殺者としての運命を勝手に決定づけられた理不尽を嘆くのではなく、ミカに感謝できるのです。ミカが「最高の暗殺者として育て上げる」という吉松の真意を彼女に伝えなかったことで、リコリスとしての人生を、「不殺」という彼女が自分自身で見出した価値で彩ることができたのですから。その運命そのものを覆すことはできなくとも、その運命の辿り方を、自分で決めることができたのですから。

3.『リコリス・リコイル』の極めて現代的なセンス

 ここまで議論が及ぶと、『リコリス・リコイル』がリコリスの運命の悲劇性を強調しない理由が見えてきます。本作は、リコリスの運命の悲劇性を決して否定しません。確かに彼女たちは、時に組織の都合で理不尽なままに死んでいく。しかしその上で本作は、その理不尽な状況を覆すような展開を、あえて描写しない。そうではなく、その理不尽な状況の中でも、自分なりに大切だと思える価値を追い求めることの意義を、自分なりにその生に積極的に意味を見出そうとする少女の姿を、描いていくのです。

 これは非常にデリケートな議論だと思います。『リコリス・リコイル』の主張は、あらゆる理不尽に適用できるものではありません。世の中には、決して認容してはならない、必ず覆さなければならない正真正銘の理不尽というものも確かに存在するのですから。そうした理不尽に積極的に生の価値を見いだせというのは、暴論以外の何物でもないと思いますし、ただの諦観だと思います。

 しかし『リコリス・リコイル』はその上で、理不尽にも時に何らかの人間的な理由があること、そして理不尽の中でも自分なりの生の意味を見出すことができることもあるということを、あえて主張しようとする。私はここに、良くも悪くもものすごく現代的なセンスを感じるのです。

3-1.正義の主張をやめたその後で

 まずは良いほうのセンスです。そのセンスというのは、インターネット的「正しさ」vs「正しさ」の分断の克服に対する願望です。

 特にTwitterを見る方には馴染みのある話だと思いますが、SNSが一般市民の言論を可視化するようになった今、そこでは罵り合いにも似た意見の応酬が嫌というほどに顕在化しています。政治のトレンド一つ覗いてみたら目を覆いたくなるようなタイムラインが表示されますし、「表現の自由」を巡るオタクの一部とフェミニストの一部の対立もそのいい例です。彼らにとって相手方の意見は理不尽以外の何物でもなく、ゆえに論争もヒートアップするのでしょう。

そういう「正しさ」vs「正しさ」の分断が、理不尽な意見への嫌悪として激化しているのであれば、これを治癒する一つの方法は、相手方の意見にも何らかの理があるかもしれないという可能性を、少しでも認識することではないでしょうか。そうすると、相手の意見を荒唐無稽なものとしてハナから棄却するのではなく、一旦受け止めて少し考える機序くらいには、もしかするとなるかもしれない。真島はこの「クソみたいな」正しさと正しさの対立を、「絶対的な正しさ」を否定することで克服しようとしたわけですが、それではその対立構造を破壊することはできても、あくまで破壊でしかないのであり、その後の共通価値の再構築を指針づけるものではありません。その点、理不尽にも人間の顔を見出そうとする千束の哲学は、真島と同じ方向を向いていながらも、真島の到達点のさらにその先へも、射程を伸ばすことができるものなのではないでしょうか。

 こうした相互理解に対する機序は、既に様々な作品に広まっている「特定の正義を振りかざすことへの批判」だけでは到達できない点です。特定の正義を振りかざすことをやめた上で、ではどのように他の「正義」との折り合いをつけるきっかけを見出せばいいのか。そういう、既に人口に膾炙したテーゼのさらに一歩先のところまで踏み込もうとしている点で、この『リコリス・リコイル』に「極めて現代的」とも言えるセンスを感じるのです。

3-2.覆しがたいこの世界の中で

 もう一つは、あまりよくないことなのかもしれないほうのセンス。それは、理不尽に抗った結果結局それを覆すことができなかった者たちに対して、本作は救いの手を差し伸べようとしていることです。

 よく「親ガチャ」「配属ガチャ」といった言葉が、若者の間で流行っているとして報道やSNSで取り上げられます。「ガチャ」というのは言うまでもなくソシャゲのガチャが由来であり、親の人格や就職後の配属先のホワイト度は、ガチャ同様に自分の力で左右することができず、かつ一度引いてしまったらガチャ同様基本的に引き直しができない、ということを指した言葉です。

 こうした言葉は、よく若者の甘えだとして批判を受けるところではございます。しかし、それが甘えか否かはケースバイケースであるとして、こうした言葉が流行してしまうことからして、「自分の人生は自分の力で左右することができず、かつ一度決定したら変えられない」という心象が若者の間で一定程度広まっていることは、確かなのではないでしょうか。毒親だったら、自分の選択の結果ではないのに人生を歪められてしまう。配属先がたまたまブラックで、長時間労働により心を壊してしまったら、自分の選択の結果ではないのに時に社会復帰が難しくなってしまう。私たちの生は、私たちが選択する余地もないままに、私たちが覆すことのできない形で、決定づけられてしまうことがある、という感覚です。

 そういう心象を持った私たちにとって、既に様々な作品に広まっているものとして挙げた「自分にとって大切な価値のために生きる」なんてメッセージは、もはやそのままでは何の意味も持ちません。自分の思うように生きろなんて言われても、自分の意志でそのように人生を方向づけることを、そもそも許されていないのですから。

 では、そんな私たちにとって救いとなるメッセージとは何なのか。それは、人生が自分のあずかり知らぬところで決定づけられてしまうことを認めた上で、それでもその人生に何らかの意味を付与してくれる、そういうものなのではないでしょうか。人生は覆せない。ならば、私たちはその与えられた人生をまずはそのまま引き受けて、それを何とかして彩っていくしかないのです。

 だからこそ『リコリス・リコイル』は説くのではないでしょうか。自分にとって理不尽なことでも、抗わずに引き受けるべきときがある。そしてそれを引き受けた上でも、千束がリコリスとしての生を自分の倫理とともに走り抜けたように、その生に自分なりの意味を見出すことができることもある、と。

そういう意味で、この『リコリス・リコイル』は一見明るく軽快なストーリーを見せてくれながらも、極めてシビアに現実と向き合っているのだと思います。本作は、リコリスなる少女たちの過酷性を無視して、無邪気に彼女たちの楽しい日常を消費しようとしているのではない。本作は、覆しがたいこの残酷な現実の中で、それでもそこに何らかの価値を見出そうとする意志の、成果なのです。

 繰り返しますが、この「覆しがたい現実」というのは、時に若者の「甘え」でしかないのかもしれません。その場合本作のメッセージはただの甘言でしかないのでしょう。しかしそれが甘えであれ若者の本当の悲鳴であれ、その心象が私たちの心を蝕みつつあり、その心象を受け止めた上で私たちをその先へと誘おうとしている点で、本作にはやはり極めて現代的なテーマ性、問題意識が備わっていると思うのです。

(終わり)

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