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『よふかしのうた』完結によせて ~異なる世界を見つめるそのまなざし~

※ サムネは『よふかしのうた』20巻(完)表紙より。

0. はじめに

 『よふかしのうた』を全て読み終わりました。非常に見どころの多い、素晴らしい作品だったと思います。

 個人的にいわゆる「日常系」(死語・・・?)にあたるような作品を読むことがほとんどなく、少なくとも序盤は主人公・コウとヒロイン・ナズナの何でもない夜の日常を描くこの作品に対し、当初はあまり入れ込んでいませんでした。
 しかし、登場キャラが一気に増えた第3巻から、本作のストーリーにエンジンがかかります。物語は「日常系」のそれからシフトし、セリやミドリ、そしてナズナの過去といった各キャラのエピソードが始まっては終わっていく、RPGゲームで様々なキャラストがどんどん解放されていくのをひたすら読んでいくような構造に。それでいて、複数のキャラストをこなしていくごとに、「コウは吸血鬼になれるのか」という本筋も同時に少しずつ、しかし確実に進んでいく。そうなってくると、もうページをめくる手が止まりませんでした。

 また、そういう構成上の巧みさと併せて魅力と言えるのが、そのストーリーテリングの語り口でした。
 本作は特に中盤以降シリアスな内容も一部入ってくるわけですが、その軽妙な語り口は序盤の日常コメディ期のそれから変わることはありませんでした。真剣な話をしている時でも、ナズナや探偵さんは雰囲気を壊さない程度にいつもボケてくれるし、キャラクターはいつも魅力的で、時に吸血鬼らしく魅惑的ですらある。最初から最後まで、物語がシリアスになっても「微笑ましいマンガだな」という印象を崩さない不思議なノンストレスさもまた、特筆すべき本作の魅力でしょう。

 そう、この作品は不思議なのです。その軽妙な語り口によってうまく隠蔽されているのですが、本作が描いているストーリーの内容はかなりシビアといいますか、厳しいリアリズムがその根幹を貫いている。夜を求めた主人公・夜守コウの視点から、コウ自身も最終的には染まることのなかった、抜け出すことのできない夜の闇が描かれている。本作は実のところそういう話なのではないかと私は感じていまして、またその「見えにくくなっている重さ」というものが、本作で私が一番好きなところだったりします。

1. セーフハウスとしての「夜」

 その重さとはどのようなものか。これを見ていくにあたって議論の出発点としたいのが、本作ではそのタイトルにもある「よふかし」の世界が、夜守コウにとっての「逃げ場」として位置づけられるということです。

1巻P.26より。本作における「夜」の世界の位置づけについての高らかな宣言。

 皆さんも、社会人であれば仕事に、学生であれば学校や勉強に対して、心底うんざりすることがしばしばあることでしょう。上司や先生から意味の分からないルールを押しつけられる。何のためにあるのかよく分からない仕事や勉強を延々とこなす。同僚や友人との人間関係がギスギスしている。なのにそれに対して不満を言うことは許されなくて、「よきサラリーマン」あるいは「優等生」という外面を維持することを社会から強制される。「ちっちゃな頃から優等生 気づいたら大人になっていた」から始まりサビでついにブチ切れる『うっせえわ』という歌が数年前に流行りましたが、そういう精神性は幅広い人々に共有されるのだと思います。

 だから、人には逃げ場所が必要です。趣味だったり、家族だったり、あとはアルコール。大人であれば特に酒の効果は強烈です(私も就職してまあまあ酒量が上がりました)し、一人で行ける場所、できる趣味も非常に多いところですので、時間とある程度のお金さえあればなんとか逃げ場所を自分で確保することができます。
 しかし、学生はそうではありません。アルコールは当然ダメですし、自分で動かせるお金は少なく、また何をするにしても保護者(家族)の同意が必要です。だから学校だけでなく家族もストレス要因になっている場合、もう本当に逃げ場がありません。そうなると、今いる場所を耐え抜くための一時避難所を確保するのではなくて、今いる場所(学校や家族)とそもそも一切縁を切ってしまって、全く別の世界で生きていくなんてことも選択肢になってしまうわけで、今そういう子どもたちが暮らす溜まり場(トー横など)が犯罪の温床になっていることは、ご周知のとおりでしょう。

 コウが本作の前半でやろうとしていたことは、まさにそういう「今いる場所(学校や家族)と一切縁を切る」ということだったのだと思います。
 もともと人と関わることに興味を抱いていなかったコウは「優等生」の皮を被ることで学校生活をこなしていましたが、恋愛関係のいざこざに巻き込まれることで何かの糸が切れ、そのまま不登校に。そして夜一人で出歩いてみたときに出会ったのが、吸血鬼ナズナでした。ナズナは社会のルールとか、人はかくあるべしだとか、そういうしがらみとは一切無縁の世界で自由に生きているように見える。だから、自分も吸血鬼になったらそうなれるかもしれない。そんな「非日常」に惹かれて、コウはナズナに恋をして吸血鬼になり、「夜」の住人になろうとしたのです。

 しかし、話はそう単純ではありませんでした。第3巻以降、多数の吸血鬼が登場して徐々に明らかになっていくのは、「夜」の世界には「夜」の世界のしがらみがあるということ。吸血鬼は基本的に人に対してその正体を明らかにしてはいけないし、どうやら吸血鬼を殺してまわっている人間もいるらしい。それどころか、吸血鬼にならないまま吸血鬼と暮らしている自分は、吸血鬼の存在を明るみにするリスクがある存在として、吸血鬼に命を狙われかねない。「昼」の世界では少なくとも命の安全は保障されていたと思いますが、それすらもない「夜」の世界の実像を、コウは徐々に学んでいくのです。「夜」の世界は、しがらみの有無という点では「昼」の世界とは何も変わらない。そこにはそこの、「日常」があるだけなのです。

5巻P.47より。冒頭のナズナによる「宣言」に対するアンサー。

 また、「夜」の世界に入るということは、「昼」の世界と完全に決別するということでもあります。人間時代の持ち物は、事実上不死である吸血鬼にとって数少ない、かつ致命的な弱点になるのですから。
 作中でその弱点が明らかになって以降、吸血鬼たちは自らの人間時代の過去の痕跡を努めて抹殺するようになり、マヒルは吸血鬼になる前の持ち物処分を「自殺の準備」と称しました。一見分かり合えない他者のことを理解するためには、その他者がどのような経験を、経緯を経て今に至っているのか、その過去を知ることがカギになるわけですが、吸血鬼になって「夜」に生きるためには、その過去を自ら抹消しなければならない。そういう意味でも、「夜」の世界に入ることは、「昼」からの理解を拒否し、「昼」と完全に決別することを意味するのです。そういう事実と直面すると、「夜」に生きるというコウの決意は、少し揺らぎを見せていくことになります。

 でも、その頃になるとコウは同時にあることを学んでもいました。それは、「昼」の世界を生きるということは、必ずしも「100%優等生として生きること」を意味するものではない、ということです。
 四角四面に見えた担任の教師は夜公園で酒を飲んでいて、その時に話しかけて見たら、教師としての顔は維持したままなのに驚くほど柔らかな人だった。ミドリのバイト先で知り合ったメイドさんは、まわりの興味を引くために自分の盗撮写真を偽造して拡散させていて、その行為は確かに歪んでいるけれど、そもそもそういう歪みは皆少なからず持っているものだから、その歪みとなんとか付き合って生きていけばいい。そういう人たちと出会った末に、彼は結局断続的ながらも学校に復帰し、修学旅行にも参加するのです。100%「よい子」にならなくてもいいから、出来る範囲で「昼」の世界を過ごしたらいい。その結果辛くなったら、都度少し逃げたり「よい子」から逸脱した生き方をしたりして、ガス抜きをしたらいい。そうして、何とか「昼」の世界と折り合いをつけていく。そういう清濁併せ吞むような生き方でもいいのではないか。そして、今やコウは「夜」という一時避難所を持っているのだから、そういう生き方ができる。そのような方向に、コウの考え方はシフトしていくのです。

 この時、「夜」の世界はもはやコウにとって「『昼』の世界と決別して生きる世界」ではありません。「昼」の世界で生きつつも、これと何とか折り合いをつけるために確保されるセーフハウスなのであり、そうしてコウは大人になっていったのです。

2.「昼」に居場所がまだあるのならば・・・

 以上のようなストーリーだけを抽出すると、『よふかしのうた』は単純な青春ジュブナイル、あるいはコウのビルドゥングスロマン(成長物語)として読めるところです。生き方に悩む少年は新しい世界を知った。その出会いのおかげで、彼は一歩前に踏み出せた。そういう理想的な物語です。
 しかし本作のシビアなところは、このコウの「『昼』と折り合いをつけていく」という変化を、「『昼』の世界に戻るところがない者たち」との出会いをもって導き出していく点だと思います。

 そのシビアさがまずはっきりと表れたのが、本作前半の山場と言える探偵さん、すなわち鶯アンコ(もとい目代キョウコ)のエピソードでしょう。
 彼女はかつてナズナと同じ高校に通っていましたが、父が吸血鬼に恋をしてその眷属となり、また吸血衝動のまま母を殺してしまったことで、天涯孤独の身となります。そして、そのような理不尽な事態を招いた吸血鬼を皆殺しにすることだけを目指して、その後の10年を過ごしていたのです。
 家族を喪った彼女には、もう「昼」の世界には帰る場所が残されていません。ではコウのように「夜」の世界に逃れるのかというと、吸血鬼が闊歩する「夜」の世界は彼女の憎しみの対象以外の何物でもなく、それもできません。だから彼女はもう、どこに行くこともできません。彼女は自らの命が危険にさらされることも構わず吸血鬼に相対してきましたが、その行動はもはや緩やかな自殺だったのです。
 だからこそ、仮にまだ「居場所」と言えるものがあるのならば、君は決してそれを自ら手放すことはしないでほしい。「昼」を捨てて「夜」に生きることにしたとして、何らかの理由でその「夜」にもいられなくなってしまったら、私と同じになってしまうのだから。「どうかどうか君は 私みたいにはならないでほしい」。そう、探偵さんはコウに語りかけるのです。

10巻P.70より。「昼」を捨て、「夜」を憎む探偵さんから少年に贈られる言葉。

 この「私みたいにはならないでほしい」というセリフは、この探偵さんのエピソードよりもさらに前に、カブラからもコウに投げかけられたものでした。
 カブラはナズナの母であるハルに恋して、ハルの眷属となることで吸血鬼になりましたが、ハルの出産により失恋。その後ハルと恋敵の娘であるナズナを母親代わりに育てながら、ハルの気持ちを理解したくてハルと同じように様々な人の血を吸ってきました。しかし、カブラはその過程で血を吸った人たちの様々な記憶を受け取っており、もう自分の思うハルとの大切な「記憶」が、本当に純たる自分の記憶なのかわからない。ハルを追って「昼」を捨てたカブラは、もう「夜」に生きる指針を失っているのです。だから、「夜守くん、君は 私みたいにならないで」。そう、カブラはこぼすようにコウに語り掛けるのです。

8巻P.85より。「昼」を捨て、「夜」の指針を失った吸血鬼から少年に贈られる言葉。

 これに畳みかけるように始まるのが、本作後半の主要部分を占めるマヒルのエピソードです。
 彼は明るくて友人も多い、まさに「昼」の住人と言えるような人物であり、コウにとっても憧れの存在でしたが、その顔もまた、コウの「優等生」としての顔と同じく仮面でしかないことがやがて明らかになります。彼は幼いころに兄を亡くしており、その後親の関心が兄のみに向かってしまったため、自分も兄のようになれるよう明るく振舞っていたのです。そういう意味では、無理して明るく振舞わず、我が道を進んでいるように見えた幼少期のコウに対して、逆にマヒルこそが憧れの念を抱いていた。しがらみにとらわれず自由に生きるように見える夜守コウは、「昼」の世界に生きるマヒルにとっての、「夜」であったのです。

14巻P.76より。マヒルにとって、夜守コウこそが「夜」の世界だった。

 そして、やがてマヒルは本当の「夜」に魅入られていきます。キクという魔性の吸血鬼に恋をして「昼」と決別しようとした彼は、同じく吸血鬼になろうとしていたコウにようやく追いついたと考えます。しかし、恋が成就するとそのまま恋人が死んでしまい、かつ「昼」にはもう帰る場所がない自分に対して、コウにはナズナと過ごす未来が残されているように見えるし、何なら「夜」とのつながりを残したまま、「昼」の世界に帰っていくようにも見える。マヒルにとって、コウはいつも先を行く存在であるのです。逆に言えば、本作は「昼」に帰っていくコウの成長を描く一方で、「そうはなれなかった」存在をつぶさに描いている。そういうことが言えるでしょう。

 だから、本作を単純なコウのビルドゥングスロマンとして解釈することは一面的に過ぎるのだと思います。
 本作品は確かにコウの成長を描いていて、そこにはコウの頑張りも多分に含まれている。しかしそれと同時に、コウが少年らしい勢いのまま「夜」の世界に飛び込んだら、「こちらには来るな」とその身体を押し返してくれる大人たちがいた。そして、幸運にも彼には友人や曲がりなりにも面倒を見てくれる母がいて、帰る場所が残されていた。そのおかげで、コウはこの最終回にたどり着くことができた。本作ではそういう側面が、カブラや探偵さん、そしてマヒルのエピソードに相当のページを割くことで自ずと浮き上がっているのであり、こういうところに何と言いますか、そのコメディチックな雰囲気とは裏腹な「大人の作品」という印象を受けざるを得ないのです。

3.「夜」は「昼」の光に焦がれている

 この「昼」にはもう戻れない「夜」の住人たちのエピソードの極となるのが、マヒルのエピソードと同時にその全容が明らかになっていった、星見キクの人生でしょう。

 キクは序盤から登場しており、マヒルを誑かす謎の吸血鬼、あるいは探偵さんの家族を崩壊させた下手人として、不穏な描かれ方がなされていきます。いつから生きているのかもわからず、ひたすら眷属を作ってはこれを放置して去っていく迷惑な吸血鬼。そういうイメージが本作中盤時点では措定され、コウらは「本作の悪役」としての彼女を追い、北海道へ赴くことになります。
 しかしやがて明らかになるのは、彼女の本当の願いが「人間に戻って死ぬこと」であるということ。キク曰く、吸血鬼は自分に恋した人間を眷属にすることで生きているが、逆に自分が恋をしてしまった人間の血を吸うと、人間に戻ることができる。そして、これまで吸血鬼として過ごしてきた時間が一気に身体を流れることで死んでしまう。この自殺こそが、キクの望みだったのです。
 確かに、「昼」との決別が人間を吸血鬼に変え、かつ吸血鬼は人間を「昼」と決別させることで生きているというのならば、「昼」との決別は吸血鬼の存在証明と言えます。するとその吸血鬼が「昼」の存在たる人間に恋することはその存在証明の否定であり、したがってその人間の血を吸うと吸血鬼は命を落とす、というのは筋が通っています。それどころか実際は、その吸血鬼に人間のほうもまた恋していた場合、その人間すら、存在意義を否定された吸血鬼もろとも命を落としてしまう。吸血鬼にとって「昼」との決別とは、それほどまでに厳格なものだったのです。

 にもかかわらず、なぜキクは「昼」を求めてしまったのか。それは、人に好かれるばかりで、自分から人に恋することが許されない吸血鬼の生に寂しさを感じていたからというのもあるでしょう。
 しかし、ここでより根本的な議論として再び本作に導入されるのが、ナズナの母であるハルの主張です。ハルはキクと一緒に「吸血鬼が人間に戻る方法」を探していたのですが、そこにはハルの「吸血鬼には生の実感がない」という問題意識がありました。吸血鬼は事実上不老不死であり、生にタイムリミットがない。したがって吸血鬼は怠惰に時間を浪費してしまい、人間のように何か意味のあることを成すことができない。「生きるってのは死ぬことだ、じゃあ吸血鬼は生きてるって言えるのか?」
 もちろん、上記のとおり「夜」の世界にもしがらみはあり、コウはそこに戸惑いを覚えたわけですが、そうしたしがらみに慣れた、あるいはそれを無視できる精神性の吸血鬼であれば、その万能さゆえにそういうことを考えてしまうのでしょう。

14巻P.124より。吸血鬼という生の苦しみについて。

 ここでは、カブラや探偵さんの主張とは反対方向から、人間を「昼」の世界へと押し戻す議論がなされていることがおわかりになることでしょう。
 コウは「昼」の世界のしがらみを抜け出すべく「夜」の世界に飛び込んだ。確かに「夜」の世界は人によっては無視できるほどのしがらみしかなく、その点ではコウの望みにかなうものであろう。しかし、そのしがらみの少なさゆえに、「夜」の世界はあまりに無味乾燥であり、それは命の危険を冒してまで「昼」の世界に戻ることを吸血鬼に渇望させるほどに苦しい。カブラや探偵さんの主張は「昼」の世界を失うことの辛さを説くものでしたが、ハルの主張は、「夜」の世界そのものの辛さを説くものなのです。「夜」は、その辛さゆえに「昼」の世界に恋焦がれることがあるのです。 

4.異なる世界を見つめるそのまなざし

 こうした「夜」の世界からのメッセージは、時にコウのように今いる世界をかなぐり捨てたくなる少年少女に対しても何か響くものがあるのではないだろうか、とも感じるところです。

 しかしながら、この作品は「夜」を良くない世界であるとして一方的に糾弾し、「夜」に逃げたくなる少年少女を上から諭すような姿勢を取っているかと言うと、決してそんなニュアンスは持ちあわせていないでしょう。
 本作を読んだ方には頷いていただけるかとは思いますが、本作で描かれる「夜」の世界は、上記の議論を踏まえてもなお、どうしようもなく魅力的に映るものです。自らのポリシーに基づいて思うがまま生きる吸血鬼はやっぱり格好いいですし、「昼」の世界を失った探偵さんは、なんだかんだ吸血鬼らと交流するなど「夜」の世界にコミュニティを築いています。そこには「昼」の世界では得られない充実があるのだと思いますし、また、まさにマヒルのように、「昼」の世界にどうしようもなく居場所が無い少年少女は確かに多数いると思います。だから、「夜」の世界で生きるということが、時にベターな選択肢になることもあるにはあるのでしょう(もちろん、「仕方なくこちらを選んだ」という少年少女がいなくなるよう、まずはしかるべき社会扶助がなされることが前提条件です)。
 そうすると、本作がやろうとしたのは「『夜』の世界を努めてニュートラルに描き出す」ことだったのではないかと、そう私は思うのです。「夜」は確かに魅力的な世界であるし、「昼」のように馬鹿馬鹿しい「優等生」の像を押し付けてくるようなこともないかもしれない。一方で、だからといって自ら「昼」の世界を捨ててしまうことは、最終的には自分で自分を苦しめることになるかもしれない。あるいは「昼」の世界には、しがらみが多いがゆえに「夜」では決して無い充実が得られることもあるし、また、あなたが気づいていないだけで、「昼」の世界にはまだあなたを支えてくれる存在がいるのではないか。そういう、あなたが「昼」の世界で本当に持っているもの、「夜」のありのままのすがた、その両方を理解した上で、あなたが生きる世界を選択することができれば。そういう姿勢が、本作からは立ち現れているのではないでしょうか。

 また、何もこれは少年少女たちだけに対するメッセージではありません。「昼」の世界に生きる社会人(サラリーマンなど)は、息抜きとしていわゆる「夜」のお店(スナックとかバーとか)に行くこともあると思いますが、そこで出会う店員や他のお客さんは、時に自分とは全く異なる世界で生きる人のように映ることがあります。この人は「昼」は何をしているんだろう。この人は自分より楽して人生を送っているんじゃないか。あるいは、この人はひどく辛い人生を送っているんじゃないか。いろいろとそんなことを考えながら、そうした人たちに「非日常」のラベルを貼ってその人を眺めてしまうことがあるかもしれません。
 しかし、あなたと違う生き方をしている人には、あなたの想像の及ばない楽しみが、そして苦しみがあって、それが、その人にとっての「日常」なのである。この世界には、あなたの日常とはまた違った「日常」がある。本作で描かれた、吸血鬼の楽しさと苦しさを知っていくコウの冒険はまさにそういうことを学んでいく冒険だったのだと思いますし、そういう様々な「日常」を並列を捉えていくそのまなざしは、きっとあなたが理解する世界を、多元的で豊かなものにしてくれるのではないでしょうか。

 最初のコウのように他の世界に一方的に憧れたり、あるいは逆に他の世界を一方的に蔑んだりするのではなくて、それぞれの世界にあるそれぞれの楽しみと苦しみを見つめる、そのまなざし。それが、「よふかしのうた」が「夜」の世界に対して向けた、そして私たちに与えてくれた財産だったのだと思います。

補遺.生まれながらにして「夜」の住人であるナズナ

 最後に、議論の流れの関係で上記から漏れ落ちてしまった、しかし重要な点について言及させてください。

 本作は、「昼」の世界から「夜」の世界に飛び込んだコウの視点から、異なる世界の「日常」を捉えるまなざしが立ち現れる作品である。そういう議論を上記では行いました。「昼」の世界から一方的に憧れていた「夜」の世界に飛び込んでみると、そこには外からは見えなかった楽しみが、そして苦しみがある。だから、そういうものを捉えるまなざしを持って世界を眺めて、あなたの生きる場所を選択してほしい。そういうお話です。

 しかし、この話はあくまで「複数の世界の間を移動できる」人間についてのみ言えることではないでしょうか。本作中でも吸血鬼になる前であれば、人間はそのまま「昼」に生きるか、吸血鬼になって「夜」に生きるかを選択することができる。吸血鬼なんていない現実世界では、多くの場合自らの進路を自分で選ぶことができます。だからこそ、その選択にあたっては、それぞれの世界のありのままを捉えるまなざしを持ちたいというお話です。
 では、そもそも世界を選択できない者はどうすればいいのでしょうか。初めにいる世界からある事情で抜け出せない者は、たとえその世界の苦しみに耐えられなくなったとしても、その世界に閉じ込められたままでよいのでしょうか。
 そういう意味で、上記の議論は実は前提部分が抜け落ちていているのです。「まなざし」の議論は、生きる世界を選択できる者たちに向けた議論でしかないのであって、この議論を行うにはまずその前段階として、そもそも生きる世界を選択できない者たちに選択権を与える、あるいは選択権を与えられない場合でもその苦しみを治癒できる方法を考えなくてはならないのではないか。そういうことが言えるのだと思います。

 ここまでお話を進めると、ピンときた方もいらっしゃるかもしれません。本作には、一人だけ「初めにいる世界から抜けだせない者」がいます。他でもなく、本作のヒロインであるナズナです。
 彼女は生まれながらにして吸血鬼であり、自分が選択したわけでもなく「夜」の世界に生きている。そして、おそらく人間になって「昼」の世界に移動することはできない。そういう、本作の主要な議論から抜け落ちてしまっているその陥穽に、他でもなくメインヒロインが位置づけられている。こういうところもまた、冒頭で述べた本作の「見えにくくなっている重さ」の一つなのだと思います。

7巻P.74より。「昼」に帰ることができたコウの対極としての、「夜」に初めから囚われたナズナ。

 そんなナズナのシビアな境遇を思うとき、どうしようもなく考えてしまうのが、「なぜハルはナズナを産んだのか?」ということでしょう。前述のとおり、ハルは吸血鬼の生というものに一種の絶望を感じていました。吸血鬼の生は実質的に無限であり、ゆえに何も生み出さない怠惰に、虚無に陥ってしまう。ゆえに、「子どもを産む」という間違いなく「何かを生み出す」行為を成すことで、ハルは吸血鬼の生に対する絶望を克服しようとした。これは一見筋の通る説明です。
 しかし、ハルは人間との間に子どもをつくったわけですが、その子どもが吸血鬼として生まれることは、あらかじめ一つの可能性として想定されるところです。理屈っぽいハルの性格からしても、その可能性を彼女は当然考慮していたことでしょう。であるならば、ハルが子どもをつくるということは、それはハルの言う「虚無」なる人生を宿命づけられた子を、この世に産み落とすことにつながりうるのではないか。それは、虚無なる人生を憂うハルの主張と相反する行為なのではないか。そういう考え方もできるところではないでしょうか。

 この点につき、本作は他の論点において進める議論の丁寧さからすると、少々驚くほどに無頓着です。
 この論点に本作が真正面から取り組んだ唯一の場面が、ハルカが自らに無限の生を与えたハルに対し、「ただでさえ無意味な生だったのに、なぜ俺を吸血鬼にしてその生を無限にしたのか?」と問うたシーンでした。俺に無限の生を与えたことは、生が苦しい俺にとっては苦しみの増幅でしかない。なのに、なぜ俺を吸血鬼として「再誕」させたのか?これは、まさにナズナから自らを吸血鬼として生んだ母ハルに対して問われるべき問いでもあり、上記の論点に対する本作の姿勢の試金石となるシーンです。しかしハルは、本作は、これに対して「キミはまだ死ぬべきではないと思ったから」、「キミの顔が好みだったから」と、煙に巻いてしまう。本作は「自らが虚無と感じる生を他者にもたらすハル」という存在に対して、明確な評価を下さないのです。

15巻P.126より。「子」から「親」へ提示される、「なぜ自分を産んだのか」という究極の問い。

 自らが「虚無」と判断した生をなぜか他人にもたらすハル。そのハルに対して明確な評価を下さない本作の姿勢。これらについては、各キャラクターの感情やストーリーをかなり明確に描いてくれた本作の中では「浮いた」側面になっており、ある意味では最も考えがいのあるポイントなのかもしれません。

 そして、この点は結構意見の分かれるところなのかなと思います。まず、自らが「虚無」と判断した生を、自らがその「虚無」から脱するために他人に押し付けるのは自分勝手なのではないかと。特にハルは、自らが愛した男に殉じて命を落とし、かつその男との間にできた子を育てることは(ハルを愛していた)カブラに一方的に押し付けるというある種無責任+かなり残酷なことをやっています。こうした点を強調するなら、本作一のトラブルメーカーであったキクに勝るとも劣らない問題行動であるとも読めるでしょう。
 しかしながら、子育てをカブラに頼ったことはともかくとして、「自らが『虚無』と判断した生は他者にとっても『虚無』であるはずだ」と判断することもまた一つの傲慢なのではないかと、そういうこともまた言えると思うのです。確かに吸血鬼の生はダラダラと続きがちであり、ハルにとってはそれは虚無だった。しかし、そんな暇と退屈を心から楽しめる人もいるかもしれないし、無限の生にも積極的な意義を見出す吸血鬼は要るかもしれない。であれば、そういった可能性をあらかじめ他者からとりあげるのは、それはそれで不幸なことではないのでしょうか。
 とはいえ、生きている人間を吸血鬼にするケースならいざ知らず、出産しようとしている子供に事前に「あなたにはこんな人生が待っていると思いますけど、あなたは生まれたいですか?」と確認することは不可能であり、その意味では、生まれてくる子どもがその子どもなりの幸せを見つけられるかは、結局生まれてみなければ決してわからないのです。いや、生まれる時点でわかったとしても、子どもがいざ成長したら、その答えはまた変わっているかもしれないのです。
 であるならば、私たちが、ハルが生まれてくる子どもに対してできる(できた)ことは、生まれてくる子どもに少なくとも最低限度の生活を保障しつつ、生まれてくる子どもの幸せを、心から祈る。きっとせいぜいそれくらいなのであり、またそれである意味十分なのでしょう。

 そして、ナズナはコウとずっと一緒にはいられないことを受け入れてなお、本作の最後まで笑顔でいてくれた。ハルの祈りは「結果的に」届いた。それがハルとナズナに関する全てなのであり、私たちはそんなナズナの笑顔にどうしようもなく嬉しくなってしまう。これはそういう結果論のお話でよいのだと思いますし、これはそのまま、本作がハルの行為の当否をあえて追及しなかったことの理由であるのでしょう。

(終わり)


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