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拙い文章という文言が嫌いだ。


謙遜。控え目な慎ましい態度でふるまうのは、良くも悪くも日本人らしい文化なのだろう。コミュニケーションにおける謙遜は勝手にしてくれといった次第だが、文章については心からやめてほしい。やめていただきたい。

「拙い文章ですがよろしくお願いします」

そんな文章、よろしくされたくない。いや、その心意気は在るべきだと思う。謙譲語を用いることで自分をへりくだる。そうして相手を立てるのであろう。義務教育で誰しもが習った尊敬、謙譲、丁寧のうちの一つだ。


そもそも、拙い文章とは何だ。「拙い」と口を滑らせるのは十中八九、上でいう謙譲語のニュアンスで用いるときであろう。しかし「技術が劣っている」という意味合いで用いられたのなら、そんな文章を僕は読みたくない。

技術が劣っている。だからどうした。そもそも皆、ビハインドがあるものではないのか。そこに優劣はつけられるのか。仮に劣っているとして、その文章は読まれなくていいのか。ここに書いている以上、読まれたくて書いているのが大半ではないのか。

日記や備忘録、自分のために書いていて何食わぬ顔をするなら構わない。もっとも、その類の文章であるならば最初から「拙い文章」と告げて相手を立てる必要はないのが正論だとは思う。


「稚拙」という言葉についても同じだ。幼稚で未熟な文章は、いつか大人になる日を待たなければいけないのか。熟したころに味わえばいいのだろうか。その来訪を待つほどコンテンツは少なくないのだ。

「あなた」に読んでほしくて書いたのだから、技術面の話は知ったこっちゃない。あなたが精一杯、魂込めて、すり減らして書いたのなら十分だ。

どうして謙遜する。文章を読んだとき「拙い文章でしたが」との八文字が書いていようものなら僕は興醒めする。正直、虫唾が走る。

だって、あなたの文章は、あなたが感じたことを書いたのなら何だって素晴らしい。素敵な文章だ。素晴らしくて敵わない文章なのだ。何も拙くなんかない。万人に読まれるべき文章であって、誰も笑覧などできない。

それに「拙い」の文言が書いていようものなら、読者は「読んでしまった読者」に一変してしまう。途端に読者が報われなくなる。「拙い」という謙遜の上には、感動や共感の橋は架からない。


何より一番言いたいのは、書いた文章、ひいては「あなた」が報われない。あなたが一生懸命書いた文章が、あなたが、死ぬ。たった二文字の「拙い」という文言があなた自身を殺めてしまう。

僕はもっと、好き勝手に、自由気ままに、傍若無人に書かれた文章が読みたい。心から相手を立てる気概で書かれた「拙い」が使われてほしい。成文化された「拙い文章」という文言が嫌で嫌で仕方がないのだ。

以上、申し訳程度の謙遜が嫌いだという話。
最後になるがここで「拙い文章でしたが」なんて、絶対に言ってやらない。

ただ、好き勝手に書いた強気なこの文章をここまで読んでくださったのであればそれは、”拙い文章でしたが”ありがとうございました。


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