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誰にでもある「無思考」

大学時代、よく友人同士で集まってワイワイガヤガヤとしゃっべっている時、私は割とボーっとしていることが多かったように思います。みんな、いろんなことを話しているのですが、話題についていけないというか、友人同士で話している内容が、何も頭に入ってこない感じです。

そして、そのうちの一人が私にしゃべりかけてきました

「さっきから黙ってるけど、竹内はどう思ってるの?

すると、中学の野球部から一緒で、私とも付き合いの長い一人が、私が答えるよりも前にこう返しました。

「あー、コイツ(竹内)は何も考えてないから

昔から、「竹内は何も考えていない」ということを知っているがゆえの発言です。そして普通、こんなことを言われたら、カチンとくるところでしょう。

しかし実際、私は何も考えてなかったので、無言のまま「あー、そうだよなぁ」などと思って、やり過ごしたのを覚えています。

今でこそ、こんな風に毎日記事を書いて、いろいろと頭の中にあることを整理していますが、元々、あまり考えることをしない人間でした。

こんな昔話をするのは、人間、常に考えるなんてことはなく、考えるべきところは考えるけれども、考えなくてもいい(と判断した)ところについては、なるべく考えないようにできているのではないかと思うからです。

例えば、街を歩いていて「こんなところに畑がある」なんて、なかなか気づかないものです。しかし、農業に関心をもって眺めてみると、意外なところに結構たくさんの畑があることに気づいたりします

聴覚にしても、自分が必要と思う音を聞き分けようとする人間の能力はすごいといいます。「カクテルパーティー効果」と呼ばれます。

カクテルパーティーのように、たくさんの人がそれぞれに雑談しているなかでも、自分が興味のある人の会話、自分の名前などは、自然と聞き取ることができる。このように、人間は音を処理して必要な情報だけを再構築していると考えられる。

ウィキペディア
「カクテルパーティー効果」より引用

人間は、自分が必要だと感じている情報については、きちんとセンサーを働かせて、それを認知することができるものの、そうでないものについては、(少なくとも顕在意識上では)切り捨てているということです。そうでないと、脳の処理が追い付かないということでしょう。

それは、思考も同じことなのだと思います。

全ての情報に対して「考えろ」、「無思考になるな」なんてことは、土台、無理な話です。思考の対象となる情報は、その当人が必要だと判断しない限り切り捨てられてしまい、結果、「その情報に対しては無思考」ということになるのでしょう。

経済アナリストの森永卓郎さんのご子息が出ている動画、日航機墜落事故について、なかなかに興味深い発言をされています。

遺族の方たちが、その真相を知りたい追究したいということで、それ以外の理由があるんじゃないかということを探っていくっていうのは、これは遺族としては当たり前だと思いますし、それはいいですけどね。親父みたいに外野が、本件に対してガヤガヤ、あれがどうだこうだっていうのは、あんまりよろしくないかなって思うし、しかもうちの親父の場合は、自分で取材、調査して、これがおかしいとかって言ってるんだったら、ジャーナリスト的にそれはそれでいいなって思うんですけど、あくまでも青山透子さんの本を読んで、そう思ったって言ってるだけですからね。

日航機墜落事故の真相なんて、遺族じゃない限り、ゴチャゴチャ調べるのはよくないというご意見のようです。しかも、ジャーナリストでもない人が、本を通じて得た程度の知識で、あーでもない、こーでもないというのは、感心しないといった立場を明らかにされています。

このことから、彼がこの問題に対して「無思考」になっているのが窺えます。このテーマが、自分にとってあまり重要でないと判断されれば、それについて思考しないというのは、上に挙げた「カクテルパーティー効果」のように、人間として当然のことであるとも言えます。

しかし、本当にそれで大丈夫か?と思わずにはいられません。

私は、この事件の真相が、国(政府)や報道というものを考えるうえで、非常に重要なことを示唆している可能性があると考えています。その影響は、遺族に及ぶだけで済むようなものではない可能性があるわけです。この事故(事件?)が、私たちの生活や未来に大きく関わるかもしれないと感じる以上、私はこの問題について、積極的に「思考」せざるを得ません。

もちろん、ジャーナリストではありません。したがって、自分なりに情報を集めるほかないです。森永卓郎さんのご子息からしたら、「ジャーナリストでもない人間が、ろくに取材もしないで、分かったような口を利くべきではない」ということになるかもしれません。

ところで、ジャーナリストというのは、調べたことを大衆に向けて発信するのがお仕事です。つまり、マスメディアを通じて、情報を流してくれる人たちなわけですが、そのマスメディアに対しては、疑問符だらけの世の中で、こう言ってしまうのもどうかと思います。

マスコミは、一方通行のメディアです。ゆえに、大衆に流す情報はいくらでもコントロールできてしまいます。それに反論しようとしても、その反論自体が大きく拡散することはありません
「死人に口なし」とまではいかないにしても、「大衆に口なし」状態です。「開かれた場」での反論を許さないわけですから、情報を流す側は、好き勝手言うことができます。

「「正しさ」が金で買える時代だけど」より引用

今の世の中にあって、マスメディアであるということ、あるいはジャーナリストという肩書であることを、信じる根拠として考えるとしたら、それほど危ないことはありません

ジャーナリストでもないのに、真相に迫れると思うな。
医者でもないのに、医療に口出しするな。
科学者でもないのに、科学を論じるな。

これは、言っちゃダメです。暴論に過ぎます。肩書や職業に意味がないとはいいません。しかし、肩書や職業なんぞは参考情報でしかありません。


もちろん、私たち一般人がアクセスできる情報なんて、非常に限られています。直接、取材をした人たちとは、比べ物にならないほど、乏しい情報しかないのは事実でしょう。

しかし、そのことによって、一般人は「真相を追究すべきではない」、「真相なんて追及できない」などとと決めつけることもできないはずです。

例えば、何度聞いても「オールエンジン」に聞こえないボイスレコーダー(一次情報)・・・これひとつ取っただけでも、本件について公式に発表されている内容には、疑問を持たざるを得ません何かがおかしいわけですから、その疑問から、「何故、おかしいのか?」を考えることが、重要になってくるわけです。

そうした作業こそが、まさしく「無思考」にならず、「思考する」ということなのです。


結局、思考する・思考しないは、本人がそれを自分に関係することと捉えるか・捉えていないかの違いに過ぎません。

厳密な意味で、「無思考」の人なんていません。みんなそれぞれ、いろんなことを考えて生きているはずです。ただ、その考える領域が違うのです。自分の問題と考えるかどうかの点で異なるのです。そして、それを変えるいうのは、相当に難しいものです。


私自身、「コイツ、何も考えてないから」と言われてしまうような人間でした。実際、そういう経験をしているので、よく分かります。考えられないんですから、仕方ありません。人間なんて、そんな生き物です。

無思考」な人、たくさんいるとは思います。カリカリしたくなる気持ちも分かります。

一方で、私たち自身にだって、あちこちに「無思考」な領域があるはずです。人間とは、そういう生き物なのです。何かを選んでいる以上、何かを切り捨てているはずです。

だからまぁ、いろいろと深刻な問題もたくさんありますが、あまりカリカリせず、たまにはゆったりと自分自身の「カクテルパーティー効果」を見つめ直してもいいのではないかと思います。

「無思考」になるな!などと追い立て回すのも疲れますしね


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