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冬眠動物的散文

 二月十一日はひとも知つてゐる

とほり紀元節といつて、日本の國

の大切な祭日であるが、かたがた

自分にとつては誕生日である。

 僕はものを覺江はじめてから今

日に至るまで、自分の誕生日に「お

目出度う」と言つて呉れたひとを

ひとりも持たない。それは、僕がゑ

らい人間でも、有名な人間でもな

くて、ひとの嫌がる厭生 家といふ

甚だ不愉快な人間だから、そんな

人間の誕生日などは迷惑だと思ふ

ひとはあつても、わざわざ祝つて

やらうなどと氣に留めてゐてくれ

るひとがないからである。僕はさ

ういふ自分を甚だ淋しく思つてゐ

る。ひとは新年には「お目出度う」

といふ言葉や氣持を浪費するやう

であるが、個人の誕生日には甚だ

冷淡である。僕はよく自分のこと

を厭生家だなどと言つて、いかに

もこの結構な世のなかにわざと逆

らつてでもゐるやうだが、決して

そんなわけではない。若しも、ひ

とがまごころと眞實といふものを

もうすこし信じて呉れるならば、

僕はまづ誰よりもこの世の生活を

讃美した筈である。けれども實際

の世間といふものは恰もその逆で

ある。僕はさういふ社會を輕蔑し

さういふ社會に生きることを甚だ

不快に思ふだけのことである。

 誰れも「お目出度う」と言つて呉

れるひとのない自分の誕生日に、

僕は十分滿足するだけ眠りを貪つ

てみた。さうして僕は春のやうに

暖かな椽の日だまりのなかで、惰

い快感を覺江乍ら、長閑なうたた

寢をつづけた。

 椽端に吊したかなりあは、いか

にも樂しさうに春日をうたつてゐ

る。僕は夢のやうにそれを遠くお

ぼろにきいてゐた。僕はまた、爽

快なほど敏捷に竹籠のなかを往來

する眼白の影が障子にうつつてゐ

るのを、幻燈のやうにうつとりと

みつめてゐた。僕はまた、ときど

き眼を庭の方にも向けてみた。そ

こには幾株かの冬ばらがあつた。

或る朝庭を歩るいてふとその薔薇

の枝をみると、いつのまにかそこ

にひとつの蕾がふくらんでゐた。

毎朝寒い霜にいぢめられ乍ら、そ

のひとつの冬ばらの蕾は枯落はし

なかつた。また冬とも思はれない

ほどの暖かい日ざしをめぐまれて

も花をひらかうともしなかつた。

さうしてそのまま庭で越年をした

が、いまみるともうその蕾はなか

つた。寒さいぢけて落ちやうに

も、それだけの思ひきりはない。

また寒さにさからつて花を咲かせ

てみやうにも、その氣力さへもな

い。さうしていつのまにか土に埋

れて行つた冬ばらの蕾は、僕の心

を寂しくした。

 僕は自分の誕生日にうつかりと

泣いてしまつた。

 數時間の後、僕は歌舞伎座の一

等席の椅子に凭りかかつてゐた。

 僕は十圓の觀劇券をひとからも

らつて行つたのだが、そんなこと

はすぐ忘れてしまつた。さうして、

日本の第一流の紳士や貴婦人のか

らだから放散する巴里ぱりーにほひや、

寶石の燦めく、珍重しべき生活の

混合酒的雰圍氣かくてるあともすふ江あをゆつくりと賞味

し乍ら、僕自らも裕福な人間のひ

とりなのだと思つて、恍惚と舞臺

をみつめてゐた。宗十郎のお舟と

莚若の頓兵衛と龜藏の義峰と壽美

藏の六藏との「神靈矢口渡」は僕に

は不快であつた。なるほど役者も

舞臺も甚だ美しいのは事實である

 然し乍らあの脚本は、それらの

凡俗なる美しさを悉く塗抹するほ

ど不快なものである。僕はその一

幕が終つてから、ひとびとのする

とほりに廊下に出て綺麗な支那絨

緞の上を歩るいた。さうしてひと

のするとほりに喫茶店の卓上で紅

茶を喫んだ。或はまた喫煙室のソ

ファに埋もれて贅澤な葉巻煙草を

薰らせてもみた。若い美しい娘さ

ん達と行き會ふと、僕はひょつと

するとそのひとと見合ひをするた

めにきてゐるのぢやあるまいかと

思つてみたりさへした。

 第二は「かさね」である。僕はこ

の歌舞伎座の舞臺で、梅幸と羽左

衛門との「かさね」を、清元延壽太

夫の浄瑠璃でいくどみたか知れな

い。さうしてそのたびにこれはい

いなと思つた。若し僕の書くこの

文章を讀んで呉れるひとのうちで

芝居のことを知つてゐるひとがあ

れば、僕がただいいなと思ふ氣持

を十分に分つてもらへる筈である

 次ぎは、谷崎潤一郎氏作「信西」

一幕である。演出は松居松翁氏で

舞臺裝置は田中良氏である。僕は

まづこの作者を甚だ好きである。

又田中良氏の裝置は五六年以前、

やはり歌舞伎座で市川猿之助が西

洋から歸つて「すみ田川」をみせた

とき、はじめてあのひとの裝置を

みて以來、僕は尊敬していいひと

だと思つてゐた。「信西」の裝置も

いいと思つた。信西は左團次であ

つた。僕は彼の出來榮をわるいと

は思はない。然しなにかもの足り

ない氣持を少々覺江たのも事實で

ある。それは何故であるか。一体、

谷崎氏の戯曲は、絢爛で、壯麗で、

雄大で、ひととほりでなく或る人

生の粘着力とでも名つくべき特色

を持つてゐないものはない。僕が

觀たものを擧げても「法成寺物語」

「恐怖時代」「無明と愛染」悉くさ

うである。さうして役者は、多く

の塲合、前述の作者の特色に壓迫

されて、ただ言葉の傀儡となり終

つてしまふやうである。「信西」に

は比較的さういふところはなかつ

たとも言へるが、矢張り僕は十分

滿足できなかつたのである。然し、

幕切れは流石にいいと思つた。谷

崎氏の作品ではいつか帝國劇塲で

みた「白狐の湯」の上演が最も完全

だつたと僕は思ふ。又、僕はこの

作者の「蘇東坡」を早くみたいと思

つてゐる。

 玆で第四の「勸進帳」の話に移る

のだが、そのまへにこの厭生家が

慌ただしい芝居の食堂で夕食を食

べたことを忘れてもらつてはなら

ない。厭生家が食事をしたり、戀

をしたりすることほどみぢめな眞

劍さろ持つてゐるものは他にない

と僕は信じてゐる。

 さて「勸進帳」はたとひ、羽左衛

門の辯慶でも、僕は愉快にみるこ

とができた。左團次の富樫で宗十

郎の義經で、芳村伊十郎の唄なの

だから、さう不足はない筈である。

「信西」をつまらないと冷笑した貴

婦人紳士の凡俗なる精神は笑ふべ

きであるが、彼らが、どういふわ

けで羽左衛門の辯慶よりも幸四郎

の辯慶がいいかと言ひ合つてゐる

のをきくと、なるほどさういふと

ころになると彼等の鑑賞眼もあな

がち輕蔑することのできないもの

を持つてゐるのが分る。それは芝

居をみる修業をつんだもののただ

ひとつの収穫である。

 最後は河竹默阿彌作「梅薰る浮

名横櫛」で、例の切られお富である

だが僕はそれをもう忘れてしまつ

てゐる。忘れるぐらいだからどう

せどうでもいい芝居にちがひない

「信西」を冷笑したひとびとの口吻

を借りれば、これは僕にはつまら

ない芝居だつたのかも知れない。

 そとへ出ると寒い風の夜である

二月十一日-この愛すべき愚直な

厭生家の誕生日は、こうして朦朧

と徒消されたのである。(終)

――十五年二月稿――

(越後タイムス 大正十五二月廿一日 
     第七百四十一號 六面より)

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