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紙 と 本

 現代の戰爭は国家總力戰と稱へられ

て、武力、經濟、思想、の國家的綜合

力の優劣が、最後の勝敗を決定するこ

とは明白であるが、その中で、思想戰

の重要な一役を務めるのが紙である。

一方、最近の軍部の一つの意見として、

「鐵と油と紙は戰爭の死命を制約す

る」或は又、「紙は彈丸に匹敵すると

迄、極言せられてゐるといふことであ

るが、若しこの言が眞實であるとすれ

ば、紙の使命は、思想戰の範圍を遥か

に超へて、武力戰の分野に迄進出して

ゐるわけである。然し乍ら、これほど

重要性を强調せられる紙も、曠古の大

戰爭遂行途上の、あらゆる制壓を受け

て、その生産條件は極度の壓迫を蒙つ

てゐることは、他の生産物資と一般で

ある。

 最近私は公用で三百册ほどの新刊書

を購入するために、日本出版配給株式

會社發行の「出版普及」を手引きとし

た時に、今更乍ら一驚したのは、この

紙飢餓の現在にあつても、猶ほ毎月、

數百種の新刊、重版の單行本が出版さ

れる他に、これ亦、夥だしい數の雜誌

が月刊せられてゐる盛觀さであつた。

第二次歐洲大戰から大東亞戰爭に擴大

するに及んで、流石の紙の先進國であ

る、英米も、共にいち早く紙の消費規

正を實施したといふことであるが、既

に過去五ヶ年には渉る、大規模の戰爭

を遂行してゐる、我國に於ける出版界

の百花繚亂たる實況を目撃して、聖代

に生きる歡喜と幸福とを痛感した次第

である。

 これ等の多數の本は、悉く、出版文

化協會の嚴重な査閲を經てゐるわけだ

から、無用の駄本は一册といへども在

り得る筈がなく、何等かの意味で、有

用の書と考へて差支へない筈である。

が、然し、私一個人の考へではあるが、

書物は必ずしも、その數のみ多きを誇

とすることは出來ないと思ふ。重版書

は問題外として、新刊書には、この

紙の苦しい時に、無理な工面迄して出

さずもがなと思ふものも、相當多數あ

るやうである。

 紙の配給統制が確立してゐる現在で

は、直接戰爭遂行に必要な紙は、勿論、

優先的に確保してあり、一般用のもの

も、その必要の重點に從つて、配給數

量は決められてあるのだから、出版用

として割當てられた範圍で、どんなく

だらぬ本に使用せられやうと構はない

と云へば、それ迄のことではあるが、

讀者としては、欲しいと思ふ本が忽ち

品切れで、餘程手廻しよくやらねば、

容易に手に入り難い實情にある反面、

誰一人手にとつて見もしないやうな本

か、本屋の棚ざらしになつてゐる――

勿論、この調子では出版元には山積し

て塵に埋れてゐるとしか考へられない

やうな、跛行狀態は、もつと思ひ切つ

て是正されてもいゝと思ふのである。

つまり、本の内容價値に重點を置い

て、紙の配給を決める良法はないもの

であらうか。これは精神文化の最高峰

である書物の本質から觀て、讀者の種

々雜多な要望とか、好尚とか、いろん

な條件があつて、簡單に劃一的に決め

られない、難しい問題ではあるが、貴

重な紙の浪費を防ぐ意味で、全智全能

の出版文化協會の力に依つて、或る程

度迄、理想的な方法を勘考することは

あながち不可能ではないと信ずる者で

ある。

 かういふ事を敢行する結果は、自然

の理として、著作生活者、出版業者、

印刷業者、その他これに關連する方面

の人々の生活を脅かすことになるが、

他の生活部門に於て夥しい轉廢業者

が出てゐる、この戰時下としては、こ

れも亦已むを得ない、尊い、國家的犠

牲である。

上述せるところは、素人の私は無責任

なる短見を放言したに過ぎないが、幸

ひにも時代の方向は、私の希望點を目

指して漸進してゐるやうに思ふ。今、

私の耳底には、出版文化の正道を行進

する、堂々たる歩武の響が、かすかに

ではあるが、どこからともなく聽へて

くるのである。

(昭和十七年九月五日稿)


(「科學知識」昭和十七年十月號 より)


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             昭和館図書室、国立国会図書館 所蔵


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