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椿

 三月になつて、椿の噂さが

ちらほらと人びとの口にのぼ

る頃だつた。僕は二十歳の憂

鬱を蒼白く身にひそめてゐた

 或る日、春らしいぽかぽか

とした日であつた。僕はふと

市川の櫻堤を歩きたいと思

つた。今日ほどの暖かさなら

ば、もうあれを着て歩いても

いいだらう。あれといふのは

昨日仕立上つたばかりのスプ

リング、コオトである。僕はそ

のコオトを身につけて、甚だ

朗らかな気持ちであつた。僕は

ステツキを振り乍ら、まづ✕

✕君を訪ねてみた。彼は今起

きたばかりである。彼は二十

三であつた。僕も彼も、戀と

いふものの気持はうすうす知

つてはゐたが、女は知らなか

つた。世間でよく云ふ童貞な

のである。さうして、そのため

に二人は憂鬱であつた。彼は

✕✕✕大學生であつた。僕は

といふと、その頃もう月給を

もらつてゐたのである。

 僕らは肩を竝べて街へ出た

✕✕君はまだ冬外套を着けて

ゐる。彼のスプリング、コオ

トは質屋の藏の中に眠つゐる

る。四月になつて、僕が今き

てゐる冬外套と入れかへるま

では、僕のスプリング、コオ

トは冬眠から覺めないと云つ

て、彼は高らかに笑つた。

 僕らは市川の櫻堤をぶら

ぶらと歩いてゐる。麗ららか

な日だが、川面を渡つて來る

風には、矢張早春の冷たさが

あつた。櫻のつぼみは未だ固

かつたが、枝によつては、一二

輪ほころびてゐるのが見えた

 空には春の雲があつた。僕

らはさういふ風景をたのしみ

乍ら、甚だ陽氣であつた。

 山蔭を通つた。

 椿の木があつた。その下に

二人の若い女が彳んでゐて、

赤い椿の花を如何にも欲しさ

うにいつまでも見上げてゐる

 行人はなかつた。

 僕らはそこを通りかかつた

 女は櫻の枝を折つて抱いて

ゐた。

「あの椿の花を欲しいわ。」

 女の一人が確かにさう言つ

たと、僕は思ひ込んだ。同時

に僕は、

「欲しいのなら折つてきてあ

げましやうか?」

と言つた。✕✕君はびつくり

した・

「ええ。――」

 女は微笑を以てさう答へた

 僕は敢然と椿の木を登つた

 数分の後、僕は椿の枝を二

本抱いてゐた。

 僕は女に一枝づつ渡した。

女は僕と✕✕君とに櫻の枝を

呉れた。

 僕らはいつの間にか二組の

男女の散歩を形づくつてゐた

僕の相手は、やせて背が高か

つた。✕✕君のはその反對で

あつた。さうして、美しさは―

幸に僕の女の方が數等上で

あつた。僕らはいつまでも堤

の上を歩いてゐた。甘美な氣

持であつた。

「よく努め、よく戀せよ。」こ

れは僕の―憂鬱な、さうして

會社員である僕の得た新らし

い標語であつた。それほどそ

の散歩はたのしく思へた。

 夕暮であつた。早春の川土

手の夕暮は寒かつた。僕は女

に、僕のコオトを掛けてやつ

た。みると✕✕君もその通り

にしてゐる。

 僕は一種のみぶるいを覺え

た。それは寒さのためだつた

かも知れない。或は女のから

だに近かつたためかも知れな

い。さうして恐らくそのどち

らものためだつたかも知れな

かつた。✕✕君も後で、さう

僕に告白したからである。

 歸路の郊外電車は甚だしい

混雑であつた。

「これから浅草へ行かう。」と

言ひ合い乍ら、手を握つて乗

つた僕らは、終點へ來るまで

に放れ放れになつてゐた。僕

らはその混雑のなかで、それ

ぞれ相手の女を、探海燈ほど

の眼光で探し求めてゐた。然

し、すべての努力は無駄であ

つた。女は改札口の人ごみに

まぎれて、遂に僕らの前に現

はれなかつた。さうして僕ら

は、どうしやうもない空虚を

覺え乍ら、はつきりと風邪を

ひいた事を感じただけである


 数日後の或る朝―僕の會社

の出勤定刻九時に十分前の時

刻であつた。僕は東京驛の改

札口を出やうとして、すれち

がひにプラツトフオームの階

段を上りかけた一人の女を瞥

見した。あの時の女にちがひ

ない。うろ覺えではあるけれ

ども、あんなによく似た他人

がゐる筈がない。こう思ふと

すぐ僕は階段の方へ引き返し

た。女は恰度そこへ來合せた

電車へ無雑作に乗つた。僕も

つづいて飛び乗つた。電車は

空いてゐた。僕は何氣なく女

の隣へ腰を下ろした。電車が

警笛を鳴らして發車すると、

いきなり僕は帽子をとり乍ら

女に向つて、

「失禮ですが、あなたはこの

あひだの方ではないでせうか

?」と言つた。

 女は僕を一瞥した。その瞬

間僕は「これはちがつたかな」

と思つた。そばでよくみると、

このあひだの女はこの女ほど

鼻が高くなかつたやうである

「このあひだの―つて、どう

 いふことですの?」女は平

氣でさう僕に問ひ返した。

「ほら、あの市川で椿の花を

折つてあげた・・・」。僕は漸

くそこ迄云へた丈である。女

は別に怒つてもゐないらしく

「いいえ。わたくしはそんな

ものでは厶いません。何かお

ひとちがひでせう。――」

 さう云って、微笑をうかべ

てゐたが、それつきり黙つて

了つた。さうして電車が次の

停車場で停つたときに、僕の

方などは振向きもしないでさ

つさと降りてしまつた。僕は

どうしやうもない空虚を再び

感じ乍ら、腕時計を調べてみ

た。九時を十五分過ぎてゐる

 さうして僕の眼の前にはつ

きりと浮みでたものは、手垢

だらけの會社の遲參簿だけで

あつた。

    (昭和五年三月稿)

(越後タイムス 昭和五年三月十六日 
             第九百五十號 六面 より)


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