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觀 劇 文 章(一)

    一

 東京で演出してゐる歌舞伎芝居

のことを、しかも僕のごとき畸形

なる精神しか持つてゐない人間が

恐らくは新精神を賞賛するに日な

ほ足らざる越後タイムス讀者諸君

の耳目に觸れ乍ら、いい氣になつ

て書くのは笑止である。然し、僕

はといふと、どんなひとからでも

ご機嫌とりに芝居をご馳走されれ

ば、すぐいい氣になつてついてゆ

くほどの他愛もない甘い人間であ

る。僕はまたその程度での芝居好

でもある。いい氣になつてひとの

ご馳走芝居をみにゆく僕が、いい

氣になつてその觀劇文章を草して

諸君の冷笑の資に提供するぐらい

のことは、僕にとつてはまさに日

常茶飯事である。

 三月四日の夕暮は折からの雪空

で、これやひょつとすると歸途に

は、ちらちら雪でも降りだすかな

と思ひ乍ら、東京第一の美しい劇

塲である新橋演舞塲の觀席扉を靜

かにひらいて導いてくれる女のあ

とに從つて行つた。幸ひにも僕を

案内してくれた女は、まだ廿歳ぐ

らいの劇塲案内女には惜しい程の

美貌を持つてゐた。少々エキゾチ

ックな言ひぐさではあるが、彼女

の鼻と眼は日本婦人には稀れな彫

刻的美を多分に供へてゐた。僕は

まづその女の美しさに恍惚うつとりとし乍

ら、(この女は多分、純粹な日本人

ではあるまい。混血兒あひのこぢやないか

な。なにしろ、この女はオペラ役者

にでもなつた方がどれほど彼女の

天賦の美貌を生かすことか知れな

いが。――)僕はこう心のなかで勝

手なことを考へてゐた。それ故に、

僕と彼女とが觀席通路を舞臺の方

へ向つて歩るいて行つたとき、恰

も一番目狂言の終幕の際であつた

ためでもあらうが、四邊の觀客の

視線は悉く彼女の上に注がれたほ

どである。僕は彼女に帽子を渡し

乍ら、甚だ光榮であつた。

    二

 新橋演舞塲の三月興行は、市川

左團次一派と市川猿之助兄弟と、

それに歌舞伎座から片岡市藏、市

村龜藏等が加はつて謂はば東京の

歌舞伎役者の若手合同芝居である

 僕はまづ第一の正宗白鳥氏作

「安土の春」三幕を是非みたいと思

つた。この脚本は中央公論二月號

に載つてゐるさうだが、僕はまだ

讀んでゐない。が、作者は評判のい

い大作家だし、演出はこれ亦劇界

で名高い小山内薫氏だし、それに

加ふるに小村雪岱氏の舞臺装置で

ある。僕は、これだけそろつてゐ

てわるい筈はないと思つた。然し、

不幸にも僕に時間がなく、せめて

小村氏の舞臺裝置だけでも一瞥し

たいものだと思つてタクシーを走

らせた甲斐もなく、僕が觀席の椅

子に凭つたときには、美しい女が

二人と一人の侍とが奇麗な春の庭

に彳んで、侍が庭箒で散りこぼれ

た梅の花びらをはき乍ら、なにか

ゆつくりと呟いたかと思ふと靜か

に幕が下りて、それで正宗白鳥氏

の「安土の春」は終つてしまつたの

である。だから、僕はこの芝居を全

く見ないも同然である。さういふ

僕がこの芝居に就いて、とやこう

言ふのは無謀である。だが僕は敢

て一言云ひたいことがある。それ

は「安土の春」が、その夜の觀客に

歡迎されなかつたといふ一事であ

る。いつたい、今の芝居の觀客は、

面白いと思つた芝居の閉幕に際し

ては必ず滿塲の拍手をおくつて、

彼等の滿足の意を表するのが常で

ある。だのに、あの美しい「安土の

春」の終幕に於ては、ただのひと

りの拍手者もなかつた。さうして

彼らの多くは、前章に言つたとほ

りに、肝要な閉幕の作者の嘲笑的

名文句をききとらうとはしないで

僕の案内女の美貌に心をうばはれ

て呆然としてゐた。或は甚だしき

になると、「なあんだ。つまらない

芝居ではないか」と聲にだして言

つたひとさへもある。

 正宗白鳥氏の「安土の春」は彼ら

の言ふとほりに事實つまらない芝

居であつたかも知れない。併し、

僕の公平なる意見によると、今一

流の劇塲の觀客諸君の精神は、常

に餘りに愚鈍であることも事實で

ある。面白いとか、面白くないと

かは別として、彼らは凡そ新らし

い脚本に對して無定見に冷淡であ

る。凡俗精神と凡俗生活としか持

合せてゐない彼らは、すべて藝術

家のすぐれたる精神を味覺する能

力がないのである。さうして、新ら

しい脚本と云へばこれを直ちに輕

蔑する惡い傾向がある。僕は今ま

でに随分多くの芝居をみてきたが

そのたびに彼らのさういふわるい

習慣を深く不快に思つたのである

なるほど藝術家の書く脚本は甚だ

暗示的なところが多くて、彼らが

昔からみなれてゐる凡俗なる人情

に終始する芝居とちがつて、甚だ

分かりにくいのは事實である。僕に

したところで、新らしい脚本なら

ばなんでもいいといふものではな

い。どちらかと言へば、新らしい

脚本にいい作品が乏しいことを認

めるものである。が、僕が不愉快を

覺えるのは、新らしい脚本の上演

に際して、多くの觀客がその鑑賞

上の態度をすこしも改めやうとし

ないからである。さうして、彼らの

ふるい痼疾的芝居觀念を以て、すべ

ての新作品を悉く惡評してしまふ

點である。

 筋書を一讀すると、正宗氏の「安

土の春」は織田信長の特異なる性

格の一面を描出して、それに作者

一流の皮肉な人生觀を加味したも

のである。暴君信長の生活は、そ

の筋書に據つただけでも、僕には

興味がある。又、さういふ君主に

從ふ郎黨の氣持も躍如として描か

れてゐるやうである。信長が自分

の若い美しい侍女こしもとが若い男と戀の

囁きをしてゐるのをみて、嫉妬の

餘り二人とも一刀のもとに斬つて

捨てるのも、自分の留守に春のき

た野山へ遊びに行つた多くの侍女

だちを打首にするのも、彼の高慢

な政治的野心の一面とともに僕に

は甚だ劇的興味を與へるものであ

る。彼がさういふ殺伐なる行為を

享樂して、しかもそこに或る人生

の寂しさをふつと感じるあたり、

正宗氏のマンネリズムであるとは

言へ、僕には興味深い描出である。

「安土の春」三幕は、一言にして言

へばまさに谷崎潤一郎式でなく、

正宗白鳥式「恐怖時代」である。

 新橋演舞塲の觀客諸君はなにが

故にこういふ芝居を歡迎しないの

であらうか。彼らには正宗氏の描

出した織田信長が氣に入らないの

であらうか。又「安土の春」三幕が

彼らにいささかの劇的感動を與へ

ないのであらうか。彼らにとつて

それほど無價値なのであらうか。

いや、いやさうではあるまい。彼ら

は凡そ藝術家の精神を感受する能

力を神からめぐまれなかつた憐れ

むべき存在であるからである。次

ぎにこれは僕だけの文學的考察で

はあるが、近來正宗氏の書く脚本

には老ひて心の萎んだ人間が、若

い男女の戀愛を息ぐるしく嫉妬し

たり、或はさまざまな怪しい幻影

を描くといふ風な心持を好んで描

寫されるやうである。これは作者

が次第に老境に入つて、作者自身

の氣持がさういふところを彷徨し

てゐるためであらうが、僕はまた

それを甚だ面白いと思ふものであ

る。僕が最近にみた「老醜」といふ

作品やこんどの「安土の春」(尤も

これは筋書を讀んだだけであるが

)は、ことさらさういふ點が露はに

匂ふものである。正宗氏はこの脚

本の上演をみるために、わざわざ

大磯から上京されたさうであるが

自分の芝居のなかに、若い美しい

女だちが、妖艶な姿態をつくして

生きてゐるのをみて、どう感じた

ことだらうか。又正宗氏は、自分

の芝居を誰ひとり歡迎しないこと

を目前にみて一層人生を輕蔑する

感を深くされたにちがひない。

 正宗氏の芝居に若い美しい女が

出る―それだけでも僕には自然で

ないやうな、へんな氣持を多分に

覺江る。これは僕がなにかに捉は

れた偏見のためであらうが、とに

角僕は當夜、慌ただしい「安土の

春」の幕切れに、舞臺に二人もの若

い美女がゐるのを瞥見してへんな

氣持を覺江たことは事實である。

             (續)


(越後タイムス 大正十五年三月十四日 
      第七百四十四號 四面より)


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#越後タイムス #織田信長





        ソフィアセンター 柏崎市立図書館 所蔵



サムネイル画像出展:国会図書館NDLイメージバンクより
https://rnavi.ndl.go.jp/imagebank/data/post-183.html

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