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雲 (五)

雲 ――續稿

きくち・よしを


 慧子けいこは、さういふ私たちのあひ

だに生まれただつたのです。秋は

慧子のために自分で子守唄をつく

つて、靜かな夜更けなどにそれを

うたつては眠らせてゐたのです。

秋の友だちの家村ふゆ子といふひ

とも、私たちのために美しい子守

唄をつくつておくつてくれました

 温い春の夜更けなどに、二階の

窓をあけて、安らかな慧子の寢息

をたのしくきき乍ら、ふたりはい

つまでも影のやうな戶の外の風景

をみつめてゐたこともありました

慧子の枕べに置いた西洋草花の匂

ひが仄かに室にこもつて、窓から

は靑い春の夜のそよ風が靜かに流

れこむのです。また或るときは、

爽かなあかつきに起きて、空にの

こつた朝の月をみたこともあつた

のです。いい晴れの日などには、

三人で遠くあの櫟林に行つて、忘

れることのできない、なつかしい、

かずかずの思ひ出を話し合つたこ

ともあつたのです。

 けれども、もう、その頃のたの

しい思ひ出も、寂しい思ひ出も、

みないまの私には、かへらない哀

しいものとなつてしまつたのです


 海を好きな秋のために私は、私

の故鄕の南國の海邊に墓をたてて

やりました。そこは、誰れもひと

の歩かない砂丘のかたはらの寂し

いところです。そして私はその墓

のまはりに、秋の好きな、月ぐさ

やカンナの花をどつさり植江てや

りました。

 秋はいまごえ、その寂しい海邊

の墓の下に眠つて、夕暮れの渚に

寄せる波の音をきき乍ら、私や慧

子のことを思ひ出してゐてくれる

でせうか。

 その、ひとめに海をはるかす

ことのできる墓から、あのなつか

しい紺靑の海のいろをみては、ま

た、はるばると高い空を仰いでは

さうして、彼女のまはりに咲きみ

だれてゐる花をいつくしんでは、

私がどんなに秋を愛してゐたかと

いふことを思ひ出して、泣いてゐ

てくれるでせうか。私には冥府の

ことはすこしも分りませんが、秋

のからだはひときれの白骨となつ

て冷たい土のなかに埋れてゐても

あの在りし日の秋の心は、あのや

さしい、美しい温かい女の思ひは、

けつして私から亡びるものではな

いと、私は思つてゐるのです。


 秋が亡くなつてから、私は秋の

お父さんと一緒に暮らしてゐます

慧子もこの頃になつてやうやく、

私ひとりの泪ごゑの子守唄をきき

乍ら、眠つてくれるやうになつた

のです。

 人形と繪本とを好きな兒で、私

がものに疲れたときなどに凭りか

かる籘の寢椅子を、いまでは、慧

子が人形と本のお家にしてしまつ

たのです。

 この冬までには、秋の墓のそば

へ建ててゐる私の終生の家ができ

上りますから、私と秋の父と、慧

子とは、その南國の海邊の家へ行

きます。慧子がものを讀むやうに

なる日のために、私は、いろいろ

な氣品たかい物語の本をどつさり

購ひました。

 私は、もうこの世のなかになに

ひとつ歡ばしく思ふものはありま

せんが、せめてこの兒が日ごとに

生長して、いよいよに秋のおもか

げを偲ばせてくれるのを、ただひ

とつの哀しい、たのしみに思つて

ゐるだけなのです。


 ―慧ちやん。あの雲をごらん。

 私は泪ごゑでさう言つて、高い

空を心なげに動いてゆく、ひとき

れの大きな雲を指ざしてみせまし

た。

 ―あの雲のなかに、お前のお母

 さんがおいでになるのだから、

 慧ちやん、お前はやく、お母さ

 んにおじぎをなさい。

 私はもうおろおろと泪ごゑをの

どにつまらせ乍ら、慧子の髪をや

さしく撫でてやりました。慧子は

まだ四つの幼兒おさなごだのに、子供とは

思へないほど靜かな、さみしい兒

でした。私がさう言つて空をみあ

げると、この兒も無心でその方を

仰ぐのです。それがまた私の心を

耐らなく哀しませたのです。

 ―慧ちやん。ほら、もうあの雲

 は遠くへ行つてしまふよ。はや

 く、お母さんに、さよならをな

 さい。

 雲のかげがこの草原をかすめても

う向ふの櫟林のうへをとほつて行

きます。慧子は私のこゑにうなが

されて、淋しさうに微笑ひ乍ら、

その雲の小さく遠ざかつてゆくの

を、ぢつとみつめてゐましたが、

やがてよくまはらない舌で、

 ―お母ちやんさよなら・・

 と言つたのです。このいたいけ

な慧子のこゑをきいたときに、私

はもうあふれでる泪をとめること

はできなかつたのです。私はひと

びとのまへをも忘れて、しつかり

と慧子を擁きしめると、その房ふ

さとした髪のなかに頬を埋め乍ら

おろおろとこゑをあげて泣いてし

まつたのです。(一四・一〇・十一夜)


(赤い夕陽の原をひとり歩るいたとき
 は寂しかつた。眞赤なカンナの咲き
 みだれた郊外の花畑を泣いてうたつ
 た日もついこのあひだのことなのに
 ――こう私に言つて呉れたひとだけ
 が、このつまらない一篇を書いた私
 の心をいちばん深く知つてゐる。私
 はそのひとにだけこの感傷的散文を
 おくる。餘人は只、笑ひ給へ)


(越後タイムス 大正十四年十一月廿九日 
        第七百三十號 六面より)


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