見出し画像

燈 臺 船 (七)

 ゆめの藝術―虹の藝術―活動寫

眞の持つてゐるものはたゞそれだ

けである。

 すくりーんにうつしだされる光

線の舞踏は、人生のまぼろしの舞

踏ではあるまいか。それらの悉く

はゆめである。虹である。ひとつ

のゆめ、ひとつの虹にもたとふべ

き物語がき江うせてしまつても、

もしそれが、私だちの情感にしみ

じみとしみこむほどの印象を刻む

ものでああれば、私達の心臓のすく

りーんに、いつまでもその影をは

つきとしまつておいて、後の日そ

れを思ひだすたびに、自分の心臓

の壁にうつしだし、哀しい思ひや、

たのしい夢や、美しい幻を、くり

かへすことができるのである。そ

れは恰も、私だちがいゝ詩をふし

づけてうたひ、いゝ小說を讀んで

自分の情熱の坩堝のなかにおぼれ

たり、寂しさのなかにひそんだり

する氣持と同じことである。

 また映畫藝術について忘れてな

らないことは活動寫眞舘の感觸で

ある。おなじ映畫でもそれを映し

だす塲所の氣分のいゝわるいで大

へん感じがちがふものである。こ

んなことを言ひだすと、それをみ

るひとびとの氣持にまではいつて

ゆかなければならないけれども、

しかし映畫のもつ色あひや感觸と

しつくりととけあふやうにつくら

れた活動寫眞舘で靜かにみること

ができれば、ひとの心持などもひ

とりでに、その甘美な氣分になじ

んでしまふのが常である。こうし

て私達はそこに、不思議な活動寫

眞的氣分といふものをつくりだす

のである。私などはごく稀れにし

か活動寫眞をみないものだが、そ

れでもひとたびあの建物のなかへ

はいると、あのなんともいふこと

のできない、ふいるむの甘酸つぱ

い匂ひが心に泌みこんで、それだ

けで十分私の夢み心地を醗酵させ

るのである。がさつな群集は不愉

快だが、落着いた感じのいゝ群集

は活動寫眞をたのしむときの氣分

には大へんいゝものである。みな

が夢みる眼をぢつと、すくりーん

に注いで心のなかではそれぞれに

さまざまな幻影をおひかけたり、

空想にふけつたりしてゐる―さう

いふ群集はまたひとつの美しい藝

術の雲である。

 いろいろなことを考へ合せてみ

ると、今のところ活動寫眞はどう

しても都會のものであると思ふの

だ。都會人のかぎりなき、複雜な

空想のなかにいちばんぴつたりす

るものであらうと思ふのだ。陶

醉といふ言葉に最もふさはしい氣

分は都會にながく住むものでなけ

れば分るものではないからである

そして活動寫眞から陶醉といふ氣

分をのけてしまつては、映畫のい

ちばん美しいところを知ることは

できないからである。

 夜更けて活動寫眞舘をでると、

まづまつさきに私は、はるかな空

の星のまたゝきをみるのだ。淡い、

しかし永遠な星のまたゝきをみつ

める私の心臓には、いまみたばか

りの、さまざまな人生の繪物語が

そのまゝしまひこんであるのだ。

私はつきることなき、美しき空想

のつばさを心ゆくばかりひろげ乍

ら、新鮮なわか葉のしげみのなか

を歩るく氣持を忘れられない。靑

白いアアク燈と街路竝木と。夜更

けの街の靜けさ―あゝ都會の騒音

にみちた不氣味な靜けさ。その活

動寫眞的風景のなかをゆく私の散

歩の跫音。私は都會が好きである。

 ことに私の好きなひとと、夜の

ひとときの夢にひたつて活動寫眞

舘から街へでるときの幸福な氣持

は泪ぐましいほどである。活動寫

眞は美しき戀びととみるのにふさ

はしい夢の藝術である。それから

うけるすべての感動を、自らの愛

戀の思ひにうつすのもたのしいこ

とだ。たゞひとりきりでみて、そ

の寂しさや笑ひの刺激をみなひと

りでうけることは耐江られない。

 戀びととゆめをわかつ―あゝ、

戀びとと、美しき虹をわかつ―た

とひ、戀びとと、七葉樹とちのきの葉陰で

夜の別れの言葉「さよなら」「おや

すみ」を交すとき、哀しい、寂し

い思ひにしづもとも、ふたりのむ

ねにおさめた夢は、ふたりの心に

うつした虹は、たのしい明日を、

いやながい生涯を約束するではな

いか。(終)

(越後タイムス 大正十四年七月五日 
                     第七百九號 二面より)



#映画論 #無声映画 #サイレント映画 #活動写真 #大正時代
#越後タイムス #映画館 #虹 #夢





       ソフィアセンター 柏崎市立図書館 所蔵

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?