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藪目白を飼ふひと(その四)

 僕がいま棲んでゐるあたりは古

い森があつたり、いつたいに樹木

の繁いところだから、小鳥も大へ

んに多いやうである。雨の降る靜

かな夜更などにひとり机邊で書見

をしたり、呆然とものを考へてゐ

たりすると、その森でほうほうと

梟が鳴くのである。僕の家の庭な

どには、目白のこゑをききつけて

いろいろな小鳥が集つてくる。ど

こからか籠を逃げだしてきたらし

いカナリアをみたこともある。つ

いこのあひだは、目白が一羽きて

庭の植込みの枇杷の枝で鳴いてゐ

た。毎年きまつたやうに二月はじ

めの暖い日の未明に僕の庭にきて

ひとこゑ朗らかになく鶯は、今年

は陽氣が暖いためか一月三日の朝

にその見覺江のある姿をみせたが

ひとこゑも鳴きはしなかつた。さ

ういふ小鳥のうちで、僕の目白君

の新家庭を怖かすのは百舌鳥であ

る。百舌鳥のなきごゑは初冬の朝

などに玲瓏とひびきこもつて、い

かにも清澄な寒さをつたへるので

僕は好きであるが、あの鳥は小鳥

とは思へないほど性質が狂暴で、

うつかりしてゐると、目白の籠な

どたたきこはして、なかの鳥を食

べてしまふさうである。まるで話

にきく品川力君の少年時代とそつ

くりである。ところが、この百舌鳥

が毎朝きまつて僕の庭のへんをう

ろうろしてゐて、隙があれば目白

夫妻を食べてしまはうと覗つてゐ

るのである。目白は百舌鳥のこゑ

をきいただけで、ぶるぶるとふる

へあがつていままで樂しく囀つて

ゐたのだ、ふいと默つてしまつて

籠の片隅ですくんでゐる。小鳥と

いふものは山に棲んでゐるときよ

りは、小鳥好きの人間に飼はれた

方が、たとひ窮屈な籠にいれられ

ても天國にひとしく樂しい生活だ

といふことであるが、百舌鳥など

といふ惡者がゐるのでは、うつか

りと天國にひとしく樂しい生活だ

といふことであるが、百舌鳥など

といふ惡者がゐるのでは、うつか

りと天國の幸福をうたつても居ら

れまい。折角、新婚の甘美なゆめ

をみてゐるのに百舌鳥のために氣

苦勞をしなければならないとは、

なんとまあよくもひとの世の事情

に似たものであらう!けれども

鳥などはまだ苦勞の尠ない方であ

る。これが人間の生活であつてみ

たまへ―まづ結婚をしたにしても

そのふたりはなるほど幸福かも知

れないが、そのために誰かが失戀

自殺をしないものでもないし、自

殺をしないまでも、くよくよと思

ひつめて遂には僕のやうに意氣地

のない憂鬱病者になるのもあらう

し、また例へばどうかすると、街

上をはれやかに散歩してゐる新婚

者とそのうちのどちらかに失戀を

した男或は女とがひょつくりと

ゆき會はないものでもない。そこ

で人間の世界には、さういふ哀し

みから、或は詩になり、小說にな

り、戯曲になる多くの出來事が生

れてくるのであるが、小鳥の世界

にはそんなみじめなことなどはあ

るまい。人間の生活に文學がある

ことは、小鳥の世界よりもまして

ありがたいことではあるが、それ

は文學として考へるからいいので

それが個人生活の事實であるとす

れば、むしろ哀切なるものである。

 人生には毎朝床からわざわざ起

きて見るだけのねうちがないやう

な氣がする。――これは佐藤春夫

氏の言葉で僕の同感するところで

ある。が、目白を飼ひだしてからの

僕はどうやらこの言葉への同感か

ら少々解放されたやうである。ま

づこのごろではどんな寒い朝でも

おそくて七時には眼が覺めるのだ

さうして醒めると、以前のやうに

床のなかでもういちど朝の睡眠を

貪ることなどはしないですぐとび

起きてしまふのだ。それから、もう

朝霧をすかして庭のなかばによは

い日ざしを這はせてゐる日光のあ

たるところへ、花を好きなひとか

ら貰つたフリヰジアとグラヂオラ

スの鉢を、湯殿からだしてきて置

いてやる。それから僕の枕元の本

棚のそばの、恰度春夫先生の肖像

のましたに置いてある目白の籠を

提げて、先生に―お早う―と言ひ

乍ら椽に出て目白の朝餐の摺餌を

すつてやる。いい匂ひで甘さうで

空腹にしみるほどである。二十分

ほどでそれを終へると、籠を軒に

吊してまづ一本の煙草と一碗の茶

をたのしく、さうして老人らしく

味はうのである。甚だゆつたりと

した枯寂の氣持を覺江る。軒塲で

はもう目白が朝餐と歌とを一緒に

樂しんでゐる。と、そのとき僕はへん

なことを言ふやうだが、或るひと

の幻をみるのだ。さうしてすぐと

それを心のなかに藏ひこんでしま

ふのである。さうするのは、ちょつ

とでもそれをながく樂しんではその

ひとにすまないと思ふからである

(僕、數前の或る暖き午後、椽に

出て日向ぼつこをしてゐたが、ふ

とたはむれに陽に向つて、股間を

瞥見すると、そこに幾すぢかの白

毛が日にひかるのを發見した。も

はや僕は純眞な戀愛感情を持つに

は、生理的にさへ餘りに老枯に失

してゐるのではあるまいか!)僕

はひととほりでなく運命にいぢめ

られて今ではそのとほりにいぢけ

てしまつてゐる。僕はさういふ遠

慮ぶかい戀情をたのしんだあとで

こんど新らしくでる僕の欲しいと

思ふ本のことを考へてみる。たと

へば佐藤春夫詩集はどんなに美し

いことだらうとか、谷崎潤一郎の

(鮫人)はどんなに待ちかねた本だ

つたらうかとか、まづそんなこと

をいろいろに空想してみる。だか

ら僕はこのごろ朝が甚だ樂しいも

のに思へるのである。

 僕の近所に紅雀を飼つてゐる家

がある。十姉妹を飼つてゐるひと

がある。街通りの果物店の主人が

飼つてゐる五羽の雲雀は朝早くか

らひつきりなしに囀つてゐる。(さ

う、さう、雲雀といへば僕の幼時は

雲雀といふ名がついてゐたほどの

饒舌家であつたさうである)又僕

の隣家には、島崎藤村氏の(新生)

を思はせるやうな二人のひとが棲

んでゐる。主人は四十ぐらいで、

その姪だといふひとは、廿四ぐらい

である。さうしてそのひとは、時

どきオルガンを彈いたり獨唱をし

たり、さうでないときにはふたり

でふざけ合つてばかりゐるやうで

ある。隣家の庭には古いいい山茶

花が咲くので、僕はとき折垣根の

ところまで行つて、その赤い花を

たのしんでゐるが、さういふとき

に若い婦人の騒しい笑聲をきくと

いつまでも不快である。又僕の近

所の僕を同じ年ぐらいのひとは、

ついこのあひだお嫁さんをもらつ

て、ふたりで幸福さうによくどこ

かへでかけてゆくのをみることが

ある。

 元旦の午さがりであつた。暖い

日だまりの路ばたで僕は幼兒とた

だふたりで羽根をついてゐた。白

い小さな羽根は澄き徹つた音をひ

びかせて冬の靑空をさしてうちあ

げられたが、僕の年來のみぢめな

憂鬱は、この爽快なひとときの遊

戯にもはればれとはしなかつた。

軈て僕はその遊びに疲れ、幼兒を

抱いて芝土手にもたれて、うつと

りと麗らかな空をみあげ、睡氣を

覺江てゐたが、ふとはれやかな笑

聲が近づいたのでよくみると、そ

れは例の若夫婦だちであつた。若

い奇麗な妻君であつた。僕はその

男にひとことほど新婚のお祝ひの

言葉を述べたが、僕にとつてはす

べての若夫婦といふものは餘りに

輝しくまぶし過ぎるので、それ以

上はどう言つていいか分らなかつ

た。(あなたも早くいいお嫁さんを

お貰ひなさい)さうその男は僕に

凡俗なるお世辭を言ひ捨てて、妻

君と肩を並べ乍ら櫻並木の路を歩

るいて行つた。僕は彼らを見送ら

うともしないで、彼の輕薄な社交

的言辭の無責任さに不機嫌であつ

た。

(僕の妻君は雲のなかに棲んでゐ

る。僕の愛慕するひとは餘りに高

雅で僕などには見向きもしない。

どうせあせつても僕の手はそのひ

とにはとどきさうでない。一生―

さう、さきの幾ばくでもない僕の

一生、僕は藪目白を飼つて暮らさ

うと思ふのです)

 僕はさうひとり言を呟き乍ら、

ぢつと冬空をみあげたが、空には

ひときれの雲もうかんではゐなか

つた。(終)  -十五年一月稿-

(越後タイムス 大正十五年一月廿四日 
     第七百三十七號 四面より)


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        ソフィアセンター 柏崎市立図書館 所蔵

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