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演奏家とエロ

「どうやったらエロい音になるのかわからない」(意訳を含む)

という話題や相談は学生のころ多数あったような記憶があります。それに対して「恋したらイイんじゃなぃ?」的な実践も難しい解決策を数多く聴いたような気がします。たしかに妄想は芸術の原動力かもしれませんが、その最たる対象である男女の内なる劣情を描く商品(ポルノメディア)を実際に観ながら本番で演奏を実践した話などの類を聞いたこと無いんですよね。

映画「レッド・バイオリン」ではイメージとして性交しながら即興演奏するという、なんとも少年には刺激の強いシーンもあります。あれ、たしかにイメージとした映画上の表現なんですが、クリエイターたちも人間。異性に恋し発情し、さまざまな感情をもち、その誰にも吐露できないムッツリエネルギーを作品に込めるなんて、中学生でも美術の授業で知っています。

歌手は恋や劣情を赤裸々に歌詞にのせ「惚れた好きだ」と大声で歌い結婚離婚を繰り返し、作曲家や絵描きは作品に時には暗に時には露骨に劣情を形として残せるのに、演奏家はなんか良く分からずにすぐ消える「音」にフワフワ乗っけるだけなんですよね。

美しい風景、男女の劣情、非人道的な軍国主義。

全て妄想や知識ではなく、その場の疑似体験として音にのせるのもありなんじゃないかって。別に興奮しながら弾いても別に罪ではない。残虐なシーンを観ながらショスタコーヴィッチを弾くことだって、誰も禁じていない。

妄想は何処まで言っても妄想。
知識は何処まで逝っても知識。

眼の前の疑似現実とはまた違う。

昔は妄想でしか一般市民はエロを享受できなかったが、今は違う。

いつでもポルノ供給が可能な異常な時代

タブレットでいつでもどこでもポルノを観ることが出来る。

それが作為的だとか非芸術的だとか、そんな話をしたいのではなく、
「エロ」がわからないなら、「エロ」を知るしか無いし感じるしか無い。
誰かの演奏が「エロ」くて素敵で自分もそういう音を奏でたいと思うなら、その実現に向けて何かしら動くしか無い。

「エロ」を求めないなら「エロ」を知らなくてイイ。

エロいものを日常生活から排他し、無駄に美化神格化するホワイト社会は、むしろ憧れを宗教的に強制的に封印する反動。コソコソと解消するのはその人の自由なんだけど、結局自分たちは猿と同じ動物なんだと感じる瞬間が、多くの人にはあると思う(猿に失礼?)。

僕らがアーティストと言われるのはマスである一般人が出来ないことをするのもまた使命だったりする気はしている。

演奏中は楽譜以外観るな?

いろんなことから舞台上でも五線紙上でも頭の中だけは本来自由なんですよね。別にポルノを観ながら弾いたらダメという法はないし、暗譜している曲や完全にアドリブできる曲であれば、お客さんからしたら表向きはなんの問題もないはず。

絵描きのライブパフォーマンスに即興で演奏するなんて企画もちらほら観ますが、あれもどうもふわふわしたショーだなって思います。公序良俗があるので、一般には一線を一切超えられないし、ギリギリのエロもない。

あれじゃ原始的には生ぬるいんです。

卑猥なものを観て演奏する人間の瞳孔が開いたりちょっと逝った表情をしていたりするライブを見て、それが音楽的なのか動物的なのか正しさ?を論議するようなことなんだろうか。

現代だからこそ手軽に実戦できるはずなんです。
後ろから覗かれなければ分からない。

今なら譜面台にタブレットを置いて再生しながら弾ける時代です。
そういう若手が出てきてもおかしくない(おかしい)

音楽を商用にするから、貞操感と建前と利用価値で作られるところをクリエイターたちは必死に抗ってるんですが、演奏家も戦ってイイんじゃないのかなあ。

というちょっとしたボヤキでした。

べつにポルノのすすめではありませんのであしからず。

ちなみに、この投稿のトップ画像は4年位前に趣味で絵を書きはじめようとしたら、「デッサンの基本は女性の体」という流れから描いていたものの一部です。曲線美、バランス、表情、そしてエロさ。難しいです。今はAIでサッとかけちゃうので「描いてみる!!」という魅力もほとんど感じなくなりましたね。

それでは。

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