漂う日々の終わり

昨日までにあった紆余曲折を経て、自分への怒りの感情を超えて、関わってもらえるすべての人たちへの感謝の気持ちが湧いてきている。さらに人だけでなく、出来事や過去の思い出にすら感謝の気持ちが湧いてきている。

まあ怒りの気持ちはかなりまだある。過去にやってこなかった自分への健全な怒りがあって、純粋にやるべきことと手をつけなくてもったいなかったことたちにケリをつけて、本気を出してやっていくんだということ。


まあほんと漂うように生きてもいいなと思ってたけど、諦めていたものごとにひとつひとつ向き合い、不安があったからこそ備えてきたものに、そろそろ感謝して手放していくことができるという確信を得たとき、自分にもっとできることがあると信じていけばいいんだと思えた。


決して得意なことではないことを、人は生きていく中で身につけていくことで、自分が生きるために最低限やらなきゃいけないことってこれなんだなという気持ちに対して、賃金を十分にもらえるといったことを証明に、自分の最低限の正しさを世の中に示していくってことがあるかもしれない。


「私ははすくなくともこの仕事で世の中の役に立っていて、それでご飯を食べているのだ。どうだ、正しいだろう!」


そんなことを示し続けるために生まれたのかといえば、そうではないと思う人もいるかもしれない。ぼくはそういうために生まれたわけではない。それは多くの人にとってただしいことだと思えても、ぼくはそれじゃない。

世界にある味わい深い素敵なものを体験し、感動することが生きる上でとても大切で、同じように思える豊かな生をひとつでも増やしていくこと。贅沢を言えば仏道にももっと関わり、人が圧倒的に楽になることをしていたい。


のちに阿弥陀如来になったと言われる法蔵菩薩の誓願のように、「私の名前を唱えると極楽にいって、悟りをひらける国をつくる」みたいな壮大なことをいままだ描けているわけではない。

それでもまずは家だ。家を最高に居心地の良い場所にしていくこと。そして多くの人が訪れ、楽になってくれる場所を作っていことが大事だ。少なくとも神社に負けない元気になれるスポットをつくっていきたい。


そしてこれまでモッタイナイと思える関わりをしてきたものを、ちゃんと備えて生かしていく生き方に変わっていく。大変だけど楽しみになってきた。

急に読者の方からサポートもらえてマジで感動しました。競馬で買った時とか、人にやさしくしたいときやされたいとき、自暴自棄な時とか、ときどきサポートください。古民家の企画費用にするか、ぼくがノートで応援する人に支援するようにします。