目指すものなどない

最近こんな話ばかり書いているけど、同じことでも何度でも書くのである。


目標というものがあると、人生は張り合いがあるというのはよくわかることで、硬式野球部キャプテンとして、ヘタクソながらくじ運が良いという能力でもって、県大会ベスト8にも貢献したことがある高校野球経験者としてはやはり甲子園を目指すからワクワクするのである。

目指すものがあって、そこを目標にして頑張ることは素晴らしいことで、それを達成するために努力を重ねることというのは大変すばらしいことであるということは疑いようもないことだと思いかねないが、ちょっとそれはどうかなと僕は思うのである。


これはすべて競争というものが前提にあって、勝ち負けが決まり、また記録が数値で残り、実際になにが優位で劣位なのかがはっきりとすることで、片方が嬉しくて、片方が悔しいということが発生するのではないか。

なぜそこに数値的な優位と劣位をつけなくちゃいけないのか。そんなものをつけないと、数字に表して明確にしないと、身体を動かす価値はないのか。


はたと気づく。アスリートでもないのに、競い合いに参加しなくちゃいけない理由なんてあるのだろうかと。個人的な趣味としてタイムが上がることが嬉しいという気持ちがあることはわかる。そういう感情は確かにあるものだから、それを大切にしたいという人がいることに納得はできる。

だけど、記録を競い合うだけが身体を動かす価値ではないと思う。気持ちがいいな、楽しいな、嬉しいな、という気持ちだけで身体を動かしたり、頭を働かせたりすることがあっても絶対良いはずだと思うのである。


サウナに入っていて、水風呂に今日は8分も入れるようになって記録が伸びたなんて話はしないし、サウナを15分も入れるようになった、なんてことを競い合うことは一切必要がない。

それにも関わらず、サウナに行くのはなぜだろうかといえば、純粋に気持ちが良いというのが最大の理由であり、次の理由はその気持ちよさをちゃんと自分に提供してあげられることにより、自分が自分の御機嫌を整えることができるというものだ。


友人がお遍路に行っているが、お遍路なんかもそうだ。40日くらいで本来帰ってくるところを60日かかるのは良くなくて、20日で回ってきたら、それはもうすごいことだということで称賛されるような内容のものではないのである。

ただそこにある景色を眺め、味わい、楽しみ、喜び、感謝して、疲れて寝ることこそとても大切なのである。行ったことないけどそう思うのである。


人生とは何かを成し遂げ、数値化できるなにかを残すために、記録に残るために生きているものなのか。それを目指す人がいたとしても構わないが、それで本人は本当に幸せになれるのか、ぼくには良くわからない。

むしろ承認欲求を助長することも多くありそうだし、記録をつくった存在になればなったで、それを手放した自分を世の中が必要としてくれないかもしれない恐怖におびえることだってあるのではないか。


ぼくは、最近もうとくに目指すものはない。ただ、気持ちの良い朝がきて、気持ちの良い人と出会い、気持ちの良い仕事の話や、その他の話をして、気持ちよくおなかが空いて、それを美味しいごはんで満たして、気持ちよく排泄をして、気持ちよい疲れを感じ、気持ちの良い風呂に入って、気持ちの良い屁をこいて寝ることがよい。

何者になりたいということもなく、ただサウナは一日一回できれば行きたいなという気持ちが純粋な欲望である。それ以上ないのである。


何かをなさねばならないことなど、どう考えてもないのである。
何かをすべきと誰かにもっともらしく言う人は、その人はそれがしたいだけなのであって、その人の正論は本来誰にも当てはまらなくて良いものだ。

自分の軸がないから、他人のそうした正論のほうが正しく思えてしまうってことがあると思うのだ。自分がしたいことをして生きられるなら生きたほうがいいし、それをまだできてないなら、まずは美味いものを食べて、気持ちよく風呂に入って、気持ちの良い布団で寝ることから始めるといいと思う。


そんな風にして今日も暮れていくのだ。それがいいのだ。


急に読者の方からサポートもらえてマジで感動しました。競馬で買った時とか、人にやさしくしたいときやされたいとき、自暴自棄な時とか、ときどきサポートください。古民家の企画費用にするか、ぼくがノートで応援する人に支援するようにします。