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地獄の引越屋のザワザワ感について

地獄の引越屋のホームページが完成して、シェアをして、見ていただいた人たちから様々な反応を頂いております。まずは皆さんにコンセプトが正しく伝わるよりも、イメージが先行して伝わることを心配はしていません。

イメージ先行や誤解が生まれること自体は、本意ではないものの、イメージが先行するも、誤解が生まれるも、どちらも「なんか気になる」と感じてもらえる機会になったこと自体が、とても意義深いことであるなと思います。


「地獄だなんて、なんかちょっと怖い」
「焦がされる、燃やされるとか、苦しそう」
「不安を煽るつもりだとすると良い印象じゃない」


こんな意見は届いていないけど、意見してくださる方々は好意的な反応だからこそ反応をわざわざ言葉にしてくださっているわけで、嫌悪感を感じられた人がいるとしたら、恐らく言葉にするのも嫌になってプイっと去って終われることになったかもしれません。

ですが、嫌悪感がそこに生まれるとしたら、その言葉自体にあるのか、受け取る側に思い当たるフシがあるからなのか、ということをよく考えないといけないと考えています。


さて割と少なくない人たちとの会話をしてきたつもりですが、特定の言葉や動作に怒りや不安を感じるとき、その人にとっては嫌な思い出や体験を思い起こさせてしまったことが原因で、本人の中にある防御的な反応が、怒りや不安の気持ちを起こさせていることが多いと感じます。

特定の言葉に深い意味を見出すのは、受け取る側の解釈ひとつであるということです。そのため、地獄という言葉が刺さらない人にとっては、地獄の引越屋という言葉はなんの意味もないことになります。

ですが今回このキーワードが幾らかの人たちにとって、「むむ、気になる」と感じさせたり、「良いな、なんか一緒にやってみたい」と思わせることになったことは間違いないと思っています。そしてこの言葉がなければ、一緒になにかをする可能性がなかった人たちとの出会いが、ここに言葉ひとつが縁となって展開し、明らかにそこに生まれなかった出会いを作りました。

そのこと自体が、そもそも今回「地獄の引越屋」という言葉を展開したことの価値がすでに生まれていることを確信させてくれました。


このように言葉がインパクトがあるということは、誤解が生じやすく、説明が必要になるという点においては、少々のデメリットはあると思います。

ですが、この言葉が僕や一緒に関わるメンバーのような人たち、つまり誰かになにかを働きかけ、世の中で生きづらいなと思っている人たちが少しでも一人でも気楽に生きられるようになったら、嬉しいなと思って、実際に活動を始めてしまえるような、活発で力強い、凹んでも立ち上がれる、だからこそ一定の信用や影響を持ちやすい人たち、が使うから影響があるのではないことに、この言葉にインパクトがある価値があるのだと思います。

今はまだ、何者でもないと思っている人、まさにいまど真ん中でしんどいと思っている人たち、いつかは誰かに働きかけていきたいと思っている人たちが、「地獄の引越屋を始めたよ」「え、なにそれ?ヤバそう、怖そう」っていうやりとりが生まれるかもしれない。そこに価値があると思うのです。


個々人が大きな影響力があればこそなんでもやれる、というのではなく、インパクトのあるコンセプトが緩やかに広がり、確実に少しずつ遠くに届き、僕らのような人たちで届け得なかった人たちに、なにげなく誰かが届ける可能性があることこそがインパクトのある、「ザワザワさせる」または「興味を持たせる」言葉を使うことの価値であると考えています。


また地獄という言葉によって、なんらかの感情的な揺らぎが生まれた、ということは、そこに恐らくなんらかの心の引っかかりがあるわけです。

それはなんなのか、を問うことから「その人のお引越」または「お引越のお手伝い」は始まると思っています。


地獄というキーワードには、恐らく「怖いもの」とか「痛さ」「苦しさ」「悲しさ」「辛さ」とか、人によっては「嘘」「後ろめたさ」「悪さ」「卑劣さ」を隠そうとする自己欺瞞を免れないことについて思いを馳せるかもしれません。

往生要集という、仏教の本があります。平安時代のお坊さん「源信」が地獄のコンセプトを書いた、おぞましいほどの創造性に溢れた描写による一冊。そこにも地獄を示すいくつかの記載がありましたが、その中に閻魔大王や、獄卒が、地獄に堕ちた人々に浴びせる辛辣で強烈な正論があります。


「我々は貴様の苦しみになにも手を加えてはおらん。その苦しみの原因となるものは、全て貴様がこれまで積み重ねてきたことそのものだ。絶望と苦しみを受け、悔いながらその苦しみを持って反省するが良いわ。」


いやはやド正論。まさに反論の余地なし。


そういう場所を思うがこそ、なにかしら心が反応するといったことが、今後色々な場面で生み出されるのではないかと思います。

あえて誰かを苦しくするような活動をするつもりはありませんが、自己欺瞞をしているのに、自覚的に蓋をしている人にとっては、「うるさい!!」と思わせてしまうこともあるかもしれません。聞きたくないかも知れません。


「では、なぜうるさく感じたんでしょう?」


そう問い始めるきっかけがあることこそ、地獄からの引越が生まれる可能性が生まれる第一歩。ただし、それをなんだか痛々しい感じではなく、あらら「我慢の釜茹で地獄」に入っちゃってたー、とか、常識血の池地獄に浸かってしまってた、とかアハハと笑って話せるのは意外と楽しいと思うのです。

自分の状況を、「アハハ、僕もです」「いやー、私もなんです」なんつって気楽に共有し、よくあることなんだよね、普通にやっちゃうんですよね、なんて感じで殊更落ち込み過ぎるんじゃなく、さて、じゃあいま地獄に住んじゃってますから引越しちゃいますね、って言えたら良いなと思うのです。


だから、ホラ。ちょっととぼけた感じで。
このウケちゃう感じのテイスト。とても気に入ってます。



いやはや、なにせこんなに反応をいただいて本当に嬉しい限りです。


これから大切に育てていきますし、皆さんにも一緒に育てていただける活動にしていきたいと思っています。可愛がってやってくださいませ。






急に読者の方からサポートもらえてマジで感動しました。競馬で買った時とか、人にやさしくしたいときやされたいとき、自暴自棄な時とか、ときどきサポートください。古民家の企画費用にするか、ぼくがノートで応援する人に支援するようにします。