お経は恭(うやうや)しい

なんであんなにお経というのは恭しいのだろうか。本論に入る前にあまりにも飾り立てられた言葉が多すぎて、「いや、わかる、すっごいのは本当にわかるんだが、どこからだ本論は」と思えてしまうことから、すでにこの恭しさにさえ効率よく話してくれと思っているところが俗物なのだよ君。はい。


まあそんな気持ちはさておき、とにかく恭しいのは間違いない。先人たちも絶対一度は思ったに違いないよ、「えーっと、なんとか菩薩さんたちの名前はここらで終わりで、はい、ここから本論な」って。

華厳経十地品という文章を読み始めておりまして、まあ最初の最初なんですけれども、金剛蔵菩薩摩訶薩というボサツさんをはじめとして、そこからずっと39人の名前を挙げていく。いやそれはもう、それはそれは素晴らしい菩薩さんたちが揃っているのであろうよ、間違いなく。

でもそこからほとんどのボサツさんたちがこのあと名前すら出てこない中で、まずきちんとそこにどんなボサツさんがいたのかだけは書いておかねばという責任感を感じるのであります。


ですが。


まあ今の世の中の仏教離れを感じますと、原典は改訂のしようもないし、変える必要もないわけですが、訳本は必要かもしれないなと思い始めております。仏教というのは生活に役立つ「穏やかな気持ちで過ごすための考え方」という点でめっちゃ有用な思想なので、いろいろと情報が錯綜してモヤモヤが溜まりやすいこんな世の中においては、めちゃんこ大事やんかと思うわけですが、その重要な根幹を担う経典が恭しすぎて普通まあ読まない。


かくいう自分も、観無量寿経とか、無量寿経については法話で話されていたのをオンラインでお聞かせいただいてから、「ははーん、そんなことを書いているのか、おもしろい!」と思ってから読み始めたのですけれども。

それもやっぱり法話を話す先生の話力が面白いから興味を引いたのもありまして、やっぱりなかなか現代人はお経の恭しさを超えて話を聴くというところにまで至らないことが多いんじゃないのかなと思うわけであります。



こういうの良いよね。関西弁でお経、きっとわかりやすい。
僕ももっとお経を読み込んで、その上で関西弁に著したいなー。

急に読者の方からサポートもらえてマジで感動しました。競馬で買った時とか、人にやさしくしたいときやされたいとき、自暴自棄な時とか、ときどきサポートください。古民家の企画費用にするか、ぼくがノートで応援する人に支援するようにします。