『いつだって、年齢なんて忘れなさい』と交わした約束を、忘れないように。


*1-
 師匠に言われた言葉だ。辰巳さん、お元気だろうか。出会った時はすでに八十八才のおばあちゃんであった。
「えー! 私八月八日生まれなんですよ!」
「あらお揃い! 末広がりね!」
年齢をあけっぴろげに言いながら、店に立つその姿に何度も勇気づけられた。

 彼女は古着着物のリサイクルショップの店長を任されていた。
 辺境の地にあったそのお店は、リサイクルショップ系列の古着着物専門店だった。人材不足で適任者がいなかったことは間違いないが、まさか八十八歳のおばあちゃんが店長は無いだろう。
 とは言え、辰巳さんはそれを有り余って魅力的なおばあちゃんだった。

 私が初めてそのお店に入ったのは、本当に気まぐれだった。近場に用事があって、たまたま時間潰しに入ったに違いない。けれど、店に入って一目見た瞬間から、「お、この店員さんと馬が合う」と通じてしまったのだ。年齢なんて関係なかった。
 着物なんてその日まで一切来たことが無かったのに、『ああ、これは良い色だな』なんて並んだ着物を見ていると、辰巳さんはスッと隣に立った。
「この着物、良い色ですね」
と言った途端、
「貴方、色のセンス最高ね!」
と大絶賛してくれたのだ。
 そこから、私と辰巳さんの子弟関係は始った。

 子弟と言ったって、着物の知識を教えてもらった訳ではない。たまたま良い色を見つけた日だけ、襦袢、着物、羽織、帯の締め方いくつか……その着物に合う基本の着方を教えてもらった。それも一週間に一回くらい、ちょっと店に寄るだけ。たまに店の裏でお茶をしつつ、私が店を見て回る。
 和服は一式を一遍に揃えようとすると、古着であろうとそれなりに値段がかかった。それを見た私が、洋服と合わせて着ても良いのじゃないかと言うと、
「確かに襦袢が無かったらTシャツを下に来ていれば良い」
 と言い切ってしまうし、私がパーカー代わりに羽織を着ていると、
「そんな風に着ちゃうの?! 素敵ね!」
など、私が雰囲気で選んだ着こなしを『どう良いか』『どう素敵だったか』を率直に伝えてくれるチャーミングさがあった。
 ここで私は服の自由さ、着飾ると言う行為の原型を得た。

 だが、私が学んだのは着飾ると言う行為だけではない。辰巳さんが褒めてくれたこと。ただ褒めるだけではないことを学んだのだ。

*-2
 私が学生を終え、この店に遠回りすることも無くなると伝えた日だ。辰巳さんは残念そうにしながら、けれど満足そうにお別れの挨拶をしてくれた。そして、自身の半生を少しだけ語ってくれた。

 辰巳さんはずっと格式高い着物の世界で生きてきたそうなのだが、老いてから結局、
「何も自分で残せなかった」
という思いを抱いたそうだ。
 それは……私生活における家族との時間、着付けで教えてきた生徒、その業界への貢献、守り教えてきた知識や歴史……など、人生で残してきた功績のことではなかった。それらの中で活動している時に、『自分がこうしたい』『こうした方が良い』と思ったことを、真っすぐ貫けなかったことだと言う。
 特に、着物の世界は格式ばかり高くなってしまい、『正解』を主張するばかりで『着る楽しみ』を全く広めることができなかったと。これを後悔しているのだ、と語ってくれた。
 その為か、私が初めて店に来た日、そして着物をふっと手に取った時、ピンと来た感情を全てぶつけたのだと教えてくれた。
「貴方が選ぶ着方は、着物の世界では邪道もあるけれど、私の八十八年の目から見たら、とっても格好よくて、センス抜群だと思ったのよ!」
 と。
「むしろ、八十八年も生きてきたのに『ああ、早くそうやって着れば良かった』と思うことばかり。だから自信を持って、この色を選べる貴方なのだから。こんなおばあちゃんが始められるのだから、いつだって、年齢なんて忘れなさい。コレと思うものをやりなさいね。この後の人生でもね、気にすることはないの」
 そう言ってくれた。
 最後の着物を紙袋に入れて、
「はーもう、こんな素敵な男性を見ることができて冥途の土産になったわよ」
 と、ぎゅっと手を握ってくれたのだ。固く、固く握手を交わしたのだ。

*3-
 「やめて下さいよ。期間は空きますけど、たまに覗きに来ますから」とか、「長生きして下さいね!」などと言ったはずだ。一般的な返しだが、本心からの言葉だった。辰巳さんは常々こう言っていた。
「年賀状とかは絶対に止めるの。だって、いつ死んだかなんて、知りたくないでしょう」
と。

 その一年後、店に言ったら別の人が店長をしていた。引退されたとの話を聞いたが、それ以降の辰巳さんを私は知らない。
 でも、良いのだ。辰巳さんは年齢を忘れたのだから。
 今もどこかで九十何歳を謳歌しながら、新しい一歳を始めているに違いない。それは八十八歳の五年生よりも、もっと輝いているはずだから。




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