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トーマと花束

心の底から誰かを好きになったことなんて無い、そうトーマは考えていました。

「たいていの人間は無様で、糞みたいなものだ」それが長年のトーマの信条でした。

そしてそれは、ネコであったとしても同じだ。
トーマは少ないけれどとても長い半生を振り返り、反芻しました。

トーマは、限りない数のネコたち、イヌたち、そして人間たちの所業について思いだし、おぞましい思いで身震いしました。

数少ないフライドチキンの骨を奪い合い、身体中に傷をつくったこと。
高い窓の上からのぞく、真っ白でふわふわしたポメラニアンの意地悪な笑顔。
たくさんのイヌとネコが一網打尽にされ、大きな車に収容されていく姿。

トーマは手のひらを見ました。
そして、真ん中を押して爪をシュッと出し、またしまいました。
だれもかれも、この爪でやってしまえばよかったんだ。

トーマは青い空を目を細めて眺めました。
白い雲が、ゆったりとかたちを変えながら右から左へと流れていきます。
風が心地よくトーマのひげをなでています。

トーマはもう一度手のひらを眺め、また、空を見上げました。
どうしてここにいるんだろう?

トーマは誰かを待っています。
自分が、誰かにお花をあげようとしていることには気がついていましたが、誰にあげようとしているのかはわかりませんでした。

自分の手は、たいていの人間たち、ネコたち、イヌたちと同じように糞みたいなものだ、とトーマは吐き捨てるように考えていました。
「だれもかれも、糞だよ」と、トーマは小さな声でつぶやきました。

それから、首をかしげました。
誰かに、この花束をあげないといけない気がしています。
誰かに、このいい匂いのするものをあげないといけないんだ、という気がしています。

「お花をあげたいんだよ」と、トーマはまたつぶやきました。

誰かに何かをもらったから、トーマは嬉しかったのです。
けれど、誰に、何をもらったのか、トーマにはまるっきりわかりませんでした。
知っているのは、今は、前ほど、人間たちを、ネコたちを、イヌたちを、そして自分のことを、糞だとは思っていないということです。

トーマは、ため息をついて立ち上がり、花束をおいて階段をとぼとぼと降りました。
誰にあげないといけないのかわからないのでは、いつまでたってもお花をあげることはできません。


トーマの胸の中には、日に日に温かいものが満ちあふれました。
散歩中にかいだ、風にふくまれる優しいにおい。
夕日の中で、世界中が黄金色に染まっていく姿。

トーマは、屋根の上にのぼり、お月さまを眺めました。
月は満ち、また欠けていきます。
月の光を浴び、星の光を眺め、また朝になって太陽の猛烈に光る様子を眺めました。


ある日、トーマはいつものようにごみ箱をあさっていました。
すると、大物にあたりました。大量のフライドチキンの食べかすです。
骨がどっさりあります。
周りにはまだ誰もいません。
トーマはごちそうにありついて、胸がワクワクしました。

骨を夢中でかじっていると、細く短い「みあ」という鳴き声が聞えました。

子ネコです。

子ネコはトーマを見て言いました。
「その骨、ぼくにもくれない?」

トーマはしばらく黙っていましたが、「いいよ」とつぶやきました。

子ネコは静かに軽やかに歩いてきて、隣に並んで骨をかじりました。
トーマも、静かに骨だけをかじりました。

子ネコは言いました。
「あんた、ひとり?」
トーマは言いました。
「たいていはひとりだよ。それがどうした」
子ネコは答えました。
「野良にしては、立派なマフラー巻いてるからさ」
トーマは「ああ」と言いながらマフラーを巻き直しました。
「これ、もらいもんだよ」
そう言ったあと、少し首をかしげました。
「もらった、というか……もらったのかどうか、わからないんだけど」

子ネコが首をかしげたので、トーマはわけを話しました。


ある日、いつものように道を歩いていたら、ばかでかい建物の最上階にある窓から、ポメラニアンが声をかけてきたんだよ。
「おい」って、小馬鹿にした、乱暴な調子だよ。飼い主がいないから、本性がでてるんだなと思った。
「なんだよ」って言うと、ニヤニヤしながらこのマフラー垂らしてきたんだ。
もう一度、「なんだよ?」って言うと、あいつこういったんだ、「うらやましいでしょ?」って。
べつにうらやましくないよ、無視だ無視、そう思って通り過ぎようとしたら、あいつマフラーをふるんだ。鼻先までもってきて、ふわふわって。
悔しいけど、ネコだからさ……ちょっと、じゃれついてしまって。

夢中で遊んでたら、ポメラニアンも頑張っちゃってさ、窓から身を乗り出しすぎてちょっと危なかったから、大声を出したんだ。遊びに夢中になる自分を止めるためだよ。

「にゃああああああああああああーーーーーーーーん」って叫んだら、ポメラニアンのやつ、今までに聞いたこともないような小さい声で「きゃん」って鳴いて、ぽろっとマフラーを落としたんだ。


「空の上から、ふわふわした、長いマフラーがゆっくり落ちてきた。それを見て、おれ、なんだか、夢見てるみたいな気持ちになった。ああ、可愛いな、きれいだなあって」

トーマは言いました。

「ポメラニアンは、落ちていくマフラーを見てた。おれと同じ気持ちだって、それ見てたらわかった。顔とかじゃない、態度でもない、なんか、わかるときってあるだろ。落ちていくマフラーと、マフラーが風に舞っている様子と、そのときの……ぱきっとした空気と、おれたちの間にあるたくさんのもの。
それが、ピタッと合わさったとき、そのときに通いあう何か」

子ネコは少し黙っていいました。
「まだ生まれたばかりだから、わからない。だけど、わかるような気もする」

トーマも少し黙って、続けました。
「うん。わかってるよ、あんたは。なんとなくそういう気がする。
それで、おれの頭の上にマフラーがふわあって落ちてきた。ポメラニアンの窓の向こう側から、あいつの飼い主の声がした。
ポメラニアンは、さっといつもの顔に戻ったんだ。飼い主を意識して。
そして、もう一度おれの顔を見た。ひと呼吸してから、あいつは飼い主のもとへ行った。
今までに見たことがないような顔だった。
いつもはさ、もっと、底意地の悪い顔をしているんだよ。
それだけがあいつのすべて、もっといえば、ポメラニアンという犬種のすべて、イヌというもののすべて、ほ乳類のすべて、……世界のすべてだと、おれは思ってた。
だけど、あいつの、いつもと違う、もっと、『ふつう』の顔っていうのかな。
それを見たとき、何だか世界がぐるっとまわって、すべてに彩りがあるみたいな気がした」

子ネコは静かに話を聞いていました。
「ふしぎだね、なんでだろう」

トーマもうなづきました。
「そうなんだ。それから、おれ、このマフラー巻いてる。あのときの、風にふわふわ舞ってる可愛い空気につつまれてる気がする」

それから、トーマと子ネコはしばらく静かに骨をかじりました。


食べ終わり、満足したふたりは、別れのあいさつをしました。

トーマは言いました。
「あんた、おれと一緒にくるかい。どうせ親とはぐれたんだろ」
子ネコは首をふりました。
「大丈夫。親はいる」
「そうか」とトーマは言いました。

トーマは、ふと思いだしました。
「あんた、花は好きか?」
子ネコは首をたてにふりました。
「好きだよ。空き地に咲いてるのをみんなで見てるのも好き」

トーマも首をたてにふりました。
「そういえば、おれも、空き地に咲いてるのを眺めるのは好きだな」

トーマは、子ネコに花束をあげたいなと思いました。
「あんたに花をあげたいけど、いま、持ってないんだ。少し前まで持っていたんだけど」

子ネコは言いました。
「ありがとう。お花は無くてもいいよ。どこにだって咲いてるから」


トーマは、その日以来、なんとなく、原っぱへ行くようになりました。
トーマは風の中で、毎日、お花を眺めました。
お花は、自然に咲いては枯れ、消えていきました。
ある日々には白い小さな花が、ある季節には黄色い大きな花が、それから、うす紫色の花が、次々と現れては消えていきました。

トーマは、今はもう、ネコのことを花のように感じています。

イヌのことも、人間のことも、世界のことも、そして自分のことも、花のように思っています。



おわり


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