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小説とは、さまざまな不思議なちからに導かれて書いている、あるいは、不思議なちからによって書かされている

 小説を書いていると、「私も小説を書いているので、読んでください」といわれることがある、という話を書いた。
 ほとんどが職場のアルバイトである。
 そして、たいていは、アルバイトを辞めると同時に、連絡がなくなる。何らかの偶然で、居合わせた友人と同じだ。「久しぶりだな。こんど、日を改めて会おうよ。連絡するよ」「うん。待っている」
 それで、連絡がきたことは、ほとんどない。

 古い友人からたまに電話がかかってくるときは、自分の商売がらみか、推している政党への投票のお願いか、あるいは宗教の勧誘である。

 その女性は、例外中の例外である。アルバイトを辞めても、たまにメールがくる。会うことはない。が、メールで、つながっている。
 長い年月がたつ。
 10年だろうか。

                   *

 「読んでみてください」といわれて、薄い文庫本を渡された。「はりねずみ」というタイトルである。新風舎文庫、とあった。
「私の本です」
 Iという女性だった。

 新風舎、という出版社は、いまはない。が、当時は、自費出版・協同出版社として、メジャーだった。と同時に、悪評も耳に入っていた。
 本を売りたい出版社というより、売れないことを前提に、本を出版したい人間に本を出版させ、その編集料で儲けているというのである。
 そのほかにも、いろいろネットに書かれていた。そこで出版した本は、全国の書店の棚に置かれる、と宣伝しているが、実際には置かれていない。置かれていたとしても、新風舎と書かれたコーナーがあって、そこに置かれているだけだ、などなど。
 それとなくIに聞いてみた。
「友達が買ってくれているはずなのに、売れていない、といっている。あの出版社のことはもういい。考えたくない」
 Iはいった。
 当時、私は大学図書館に勤務していて、Iは、そこのアルバイトだった。大学図書館は、大学生のアルバイトが多かったが、Iは、かれらと比較すると、年齢が上だった。
 大学院を卒業しているからだろう、と私は思っていた。哲学を専攻したということである。

 「はりねずみ」は、すらすらと読める小説で、女主人公の精神状態が、ハリネズミのように他人を傷つけ、それによって、自分も傷つけられる、という内容だった。
 ただ、最後までそのテーマを追い切れずに、尻切れトンボに終わっている、という印象を受けた。
 一種の恋愛小説とも読めたが、恋愛については、それほどページをさかれていなかった。
 次作も読んだ。今度は、パソコンで書いてきた。プリントアウトした紙の束を持ってきた。
 法学部の厳粛な大学教授と、自由恋愛主義者の助教授(当時は准教授と呼ばれていなかった)が出てくる小説で、両者の対立がストーリーを牽引していくのかと思ったが、そうはならず、二人は対立しないどころか、出合いもしない。
 法学部の教授なのに、法とは何か、という問いにこたえられないという設定だった。
 ストーリーも停滞気味で、先を読ませるちからがない。あれ。「はりねずみ」はこんな感じじゃなかったのにな、と私は思った。
 そのとき、ふいに気がついた。
 ある日、私は、その思いつきを聞いてみた。
「『はりねずみ』って、編集者の手が入っていたの?」
「いや。ぜんぜん。あそこは、何もしてくれない」
 Iはそう返事をした。
 ということは、Iは、本にするつもりで執筆したので、結果として、すらすら読める小説になった、ということだろうか。
 小説とは、不思議なものだ。さまざまな不思議なちからに導かれて書いている、あるいは、不思議なちからによって書かされている。

 ある日、図書館の事務室に電話がかかってきた。聞いたことがない小学校名を名乗った。
 Iの名前をいった。
「お子さんが熱を出しているので、引き取りにきてください、と伝えてください」
「え? お子さん?」私は驚いた。
「そうです。Iさんに伝えてください」
 バイトの採用は、庶務課であり、私は、履歴書を見ていなかった。
 子供がいるとは。いや、その前に、結婚していることさえ、知らなかった。
 Iに知らせると、大急ぎで、早退していった。

 後日、家庭環境のことを、さしさわりのない範囲で、聞いてみた。
「高校を卒業して、結婚して、子供ができたのですが、離婚したのです」
 Iはいった。
 「はりねずみ」を思い出した。そういえば、恋愛小説だったな、と。
「どうして離婚したの?」
 私は尋ねた。職場では、セクハラ認定されかねない危険な話題だが、Iは私が小説を書いていることを知っている、いわば同志なので、許されるだろう、と思った。
「結婚相手が、ぜんぜん働かなかったからです」Iはいった。
「え。働かない男と結婚したの?」
「まだ、若かったから」
 といっても、数年前だろうが。
「そういうのって、わからないものなの?」
「わからなかったなあ」
 Iは無邪気にいった。
 その相手と離婚してから、改めて大学に通い、そして大学院を卒業したという。
 おそらく、生家が裕福なのだろう、と私は思った。

 その後、Iからは、
「昭和初期を舞台にした小説を書き始めた」という話を聞いた。
「そういう小説を書くのなら、当時の時代背景や風俗など、文献をきちんと調べる必要があるよ」
「はい、もちろんです! できたら読んでくださいね!」
 Iは元気よく返事をした。私の言葉などまったく意に介していないようだった。
「了解です」
 私は苦笑していった。

 その昭和初期小説が、私に渡されることはなかった。
 契約期間が切れ、アルバイトを辞めていったからである。
 新しいアルバイト先は、自分が卒業した大学の大学院の学科事務室だそうである。Iにとっては、理想の職場であろう。
 私は、昭和初期を舞台にした小説を書くより、18歳で結婚し、子供を産み、離婚したI自身のことを、セキララに書いたほうが、ずっと面白いものができるのに、と思った。実際に、本人にもそういってみたのだが、Iは、その素材には、興味がないようだった。
 こもごもとした複雑な思い。伝えたくない(あるいは伝えられない)思いがあるのだろう、と私は思った。

 Iは私の小説を読んでくれている。
 新しい本を出すと、私はメールを送る。Iからは、嬉々とした近況を知らせるメールがやってくる。私の本を買ってくれているようだった。
 直接かかわりがなくなった関係、利害が一致しなくなった関係は、いつかなくなる。
 Iとの関係も、いずれ、終わることになるのだろう、と思っている。さびしい気がするが、仕方がないことだ。
 この10年間、ずっとそう考えている。

 昭和初期を舞台にした小説は、いまのところ、私の元には送られてきていない。


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