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本 飢餓の村で考えたこと

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1976年から77年に私はNGO駐在員としてバングラデシュの飢餓の村で活動しました。その時の経験を書いた本です。人類史の大部分は飢餓に近い状況の中で生きてきた人間、歴史を考える時… もっと読む
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記事一覧

飢餓の村で考えたこと 65.66

注意:ここに書いている体験は76年77年のことです。日本でいうと戦後すぐの時代を書いたような…

飢餓の村で考えたこと63.64

買い物 買い物はどうするのか。日々の食材はアハモッド君が近くのバザーで買ってきていた。そ…

鍵の村で考えたこと60.61.62

モノづくりの原点 私たちはシャプラ村事務所の書類を保管するための木製キャビネットを作…

飢餓の村で考えたこと 57.58.59

切り方を変えて 私はアハモッド君に一度だけ料理についてリクエストしたことがある。その…

飢餓の村で考えたこと 55.56

料理人アハモッド君 村には私ともう一人の日本人駐在員が生活していたが料理作りは村の人…

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飢餓の村で考えたこと  53.54

サムスール・ホック君 私がポイラ村に入る前から、シャプラは活動を進めるために村の青年…

飢餓の村で考えたこと 51.52

1976~77 まるで江戸時代? ポイラ村で米を脱穀しているところを見た。庭の土は牛のふんと土を混ぜたもので塗ってある。表面は固くなり埃もしないできれいだ。お米の脱穀はまず刈り取ってきた稲穂を相撲の土俵のように円形に積む。 牛を2頭連れてきて稲穂の部分をぐるぐる回らせながら牛に踏みつけさせる。人はその牛を操って一緒にその土俵型の周りを回っていた。牛が踏みつけることによって脱穀するという。 この様子を見て私はまるで江戸時代にタイムスリップしたような錯覚を覚えた。ポ

飢餓の村で考えたこと 49.50

学校に行ってないこと バスの行先を訊ねて嘘をつかれたことで大変な目にあったことがある…

飢餓の村で考えたこと 47.48

植民地の言語政策 イギリスのインドを含めた植民地の言語政策は次のようなものであった。…

飢餓の村で考えたこと 45.46

劇的効果の抗生物質軟膏とサルファ剤 私たちは病気の時に備えて抗生物質の軟膏とサルファ…

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飢餓の村で考えたこと 43.44

「ありがとう」の言葉 私たちがポイラ村にいた時期の村人は「ありがとう」(ベンガル語でドン…

飢餓の村で考えたこと 41.42

植民地とは? 私たちの住まいから200m位の近くにイギリス植民地時代の徴税請負人(ベンガル語…

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飢餓の村で考えたこと 39.40

全ての栄養をご飯から 村人はどんな食生活をしていたのか。村で一番金がかからない食事とはど…

飢餓の村で考えたこと 37.38

貧困の悪循環 私がポイラ村にいた頃(1976~77)はどの家庭も子供が大勢いた。どこに行っても湧き出てくるように小さな子供たちが大勢出てくる。ポイラ村は「貧しさの悪循環」の典型のような村だったと言える。 貧しいために子供がよく死ぬ。だから将来の子孫を残すためや親の面倒を看てくれる子供を残すために無計画に子供をたくさんつくる。親は学校に行ってないので将来の家族計画を考えておらず、子供が増えていく。 子供が増えるとますます貧困に陥る。貧困だから子供を学校にやることができない