いとバイ通信7  哲学 実存について

いとバイ通信7  哲学  実存

2020.5.2(土)

自分の実存を考えてみる

私のブログにスキを下さった方のブログを覗いてみました。その内容を考えているとこの哲学の「実存」のことを書きたくなりました。少し前に哲学者カールヤスパースの研究者重田英世先生の話を書きました。哲学好きの私は重田先生はヤスパースの弟子のような気持ちをお持ちでした。それで弟子と認めておられませんが私自身は勝手にヤスパースの孫弟子のような気持ちでおりその偶然を誇らしく思います。

実存哲学者(?)カールヤスパース

ヤスパースは世間では3大実存哲学者の一人と評されているようです。あとの2人はハイデッガーとサルトルです。しかし私はヤスパースの哲学は違う呼び方をしたいと思っています。彼は人類史の中に忽然と現れた世界哲学者だと言ってもいいのではないかと私は考えています。

彼の「実存」とは

私が理解しているヤスパースの実存とは哲学の最高峰はそれぞれの自分の中にある実存の答えであると言っているように思えるのです。私にとって圧倒的に素晴らしい哲学者であるヤスパースが要求するのは彼の哲学に私の実存から生まれる哲学を対決させることを要求しているように感じます。各自のおのれの実存が最高峰であるということが彼の実存哲学かもしれません。しかし対抗すべきヤスパースの哲学のあまりのすごさにただ茫然とするだけなのです。

自分の実存の哲学とは

私が思う実存とは究極の自分です。この実存こそ自分そのものです。そこからの哲学は実存の前段階である意識や知識で作り出すものではなくこの実存の段階ではただただ実存の声に耳を傾けることしかできません。ここで自分ができることは実存の言葉が下りてくる時に備えて聞き逃さないように準備するという「受け身」の態度しかないのです。ヤスパース哲学では唯一この実存によって神からの暗号を受けることができます。つまりヤスパースは神を信仰しています。私も神を信仰しており人生でそれらしい暗号を感じたことがあります。これは言葉で解説や説明をしようとすると違うものになってしまうようなことがらです。

全ての大哲学者の言葉も鵜呑みにはできない

尊敬する大哲学者や教祖の言葉であってもそれを鵜呑みにして自分の人生訓にすることはできないと思います。偉大であればあるほどおのれの実存と対決して己の哲学を見出さないといけないのです。私はこのいとバイ通信では私の実存が語ることを書けたらと考えています。自分の非力を自覚しながらもその非力な自分の実存を通さなければ自分の言葉にはならないと思うからです。そして読者の皆様はご自分の実存を通して批判的に理解いただければと思うのです。

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