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榊原家と大須賀家

善導寺(群馬県館林市楠町)に榊原康政の墓所があり、康政の宝篋印塔に並んで大須賀忠政と榊原康勝の五輪塔があります。
榊原家の墓所になぜ大須賀の五輪塔があるのでしょうか?

善導寺 榊原家墓所

慶長11年に榊原康政が死去すると、三男の康勝が家督を継ぎました。
なぜ三男坊が継いだのか?
長男の忠政は外祖父の大須賀松平康高の養子となっており、次男の忠長は早世していたからです。
榊原の大事な跡取りの長男は大須賀家に養子に出されていたのです。

大須賀家は、一説に鎌倉幕府の功臣、千葉常胤の四男、大須賀四郎胤信の子孫とも言われています。
大須賀康高は、徳川家康に仕え、「康」の字を与えられ、後に松平姓を賜りました。
彼は、三河統一後の徳川家康の遠江攻略の中心的役割を演じ、強敵甲斐武田氏との激戦地、遠江高天神城攻略の拠点、馬伏塚城、横須賀城の守将に任じられます。
家康からの信頼も厚かったんでしょうね。
姉川の戦い、本能寺の変後の甲斐信濃侵攻、小牧長久手の戦いでも先陣を務めています。

康高には嗣子が無りませんでした。
大須賀の家を残すため、榊原家に協力を求めます。まず、長女を榊原康政に嫁がせ、康高は康政の長男忠政を養子に迎えます。
嫡男を養子にもらうということは養子元の榊原家より養子先の大須賀家の方がこの時は格上だったと思われます。

なぜ榊原家を選んだのでしょうか?
榊原康政は、遠江攻略の際、大須賀康高と行動を共にすることが多かったと言われています。まだ若輩だった康政にとっては大須賀康高は大先輩。彼の堅実な働きぶりを見て敬愛していたでしょう。おそらく家康から「大須賀康高を手本に励め!」と言われていたかもしれません。
康高も若手の有望な成長株、康政の能力の高さを認め、大いに可愛がっていたのではないでしょうか?

家康関東入国では、大須賀忠政は、上総久留里3万石を賜り、関ヶ原後は遠江横須賀6万石に転封になります。

榊原家は、康政の三男康勝が家督を継ぎますが、わずか26才で死去してしまったため、無嗣廃絶の可能性が出てきました。

これまで功績が大きかった榊原家の断絶を危惧した家康は、忠政の長男忠次に大須賀家を継ぐか、榊原家に戻るか希望を聞いたと言います。
忠次は、家康の意向に忖度したのでしょう。結局忠次が榊原家に戻ることを決めます。
こうなれば、大須賀家は世嗣廃絶、家中は榊原家に吸収される形となりました。

大須賀家は、徳川家臣団の中で戦で大いに活躍した家柄でした。しかし、その活躍の割に知名度がイマイチなのは、江戸時代、家が残らなかったからでしょう。
また、大須賀家の活躍は榊原家の活躍だったと書き換えられた部分もあるのでは?と思います。

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