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 実家のクローゼットから、高校時代に着ていた学校指定のコートが出てきた。紺色のロングコート。袖を通してみるとずっしり重たい。これを着て、重たい鞄を提げて登校していたのかとおもうと、おつかれさま、という気持ちになる。シンプルなデザイン、かつ、ブランド物というのもあってまだまだくたびれていない。ということで持ち帰ってきてしまったけれど、いまカーテンレールに吊り下げられたコートを見ながら、果たして着る機会があるのだろうか……と冷静になってしまった。高校生時代からそれほど体型が変化していないというのもあって、どうにも諦めの踏ん切りがつかない中途半端なコート。

 高校を選ぶとき、周囲の子たちが「制服がかわいい」と言っていたのでそれに流されて選んだ。駅から近かったというのもある。
 実際着てみた感想としては、冬用のセーターが薄手で寒かった記憶しかないし、かわいいかと言われればそれほど自分の好みではなかった。当時女子でもスラックスを選べたことは目新しかった。
 制服といえば、大阪ではないけれど憧れている制服があった。いまでもすこし憧れている。通うことはむずかしかっただろうし、いま選ぶとしてもその学校を選ぶことはきっとできないだろうけれど。ワンピース型の、清楚な制服。好みでいうならその制服のほうがずっと好みだった。

 高校生になりたい、とおもう。無限に可能性があって、若さがあって、眩さがあって。戻りたいじゃなくて、なりたい。
 高校生だった当時、先のことなんかもちろんわからなくて、周りのおとなたちが言うことが正しいのだとおもうしかなくて、流されるままにとにかく周囲(おもに家族)の期待を裏切らないようにという気持ちしかなくて、進んできた。
 実際に、おとなたちの言うことは正しかったとおもう。勉強はしておくにこしたことはない。進路だって間違ったことを言われていたわけではなかったとおもう。でも周囲のおとなたちの示す正しい道はいつだって、レールから振り落とされないための一般的で安全な道だった。迷うことがないように、安心安全な道だった。
 わたしにもっと勇気があれば、周囲を振り切れるほどのつよさがあれば、その安心安全な道ではなく自分の進みたい道を選べたんじゃないか。ふつうとは言いがたいかもしれない不安定な道を選べたんじゃないか。そうやって後悔することが増えた。周囲のせいにしたいわけではなくて、けっきょく、じぶんにそれを選ぶ勇気がなかったというだけの話だけども。周りに心配されない、がっかりされない、心配させない、ふつうで安全な進路を選ぶことで期待を守り続けたかった情けない自分がいただけの話で、そんな自分をただ悔いる日が増えた。

 おとなになってみれば、間違いではなかったけれど正しくもなかったなとおもう。高校生のころは、一度失敗したらもうなにもかもダメになると思い込ませるような環境だったけれど、実際はそうでもない。失敗してもチャンスはいくらでもあって、一度のことですべてがおしまいになってしまうなんてことはないのだと、おとなになってからじゃないとわからなかった。当時のおとなたちはそう教えてはくれなかった。

 だから高校生に戻りたい、ではなく、なりたい。
 失敗しても大丈夫だよ、と知ったうえで高校生になりたい。ほんとうになりたいものってなんだった? なれるなら、自分と向き合う時間をもっとたいせつにしたい。それはいまだって、そうだ。あの頃より眩さも無限の可能性もないけれど、自由は手に入れているはずだ。ほんとうならいろいろなことを諦めてしまわないといけない年齢でも、そこに縛られずになりたい自分を見つけたいし、もっともっと、表現していきたい。

 コートひとつでそんなことをおもうクリスマスイブの夜だった。

 ところで、クリスマスは毎年家族でケンタッキーのチキンを食べることになっている。いつからかそんな風習になっていた。なのでことしも習ってチキンをお腹がはち切れそうなくらい食べてきた。
 今月から働き始めた職場でいろいろ気遣ってもらってがんばれそうだという近況、年末年始の予定合わせ、犬のはなし、などなど。途中から弟一家もやってきてにぎやかになり、久しぶりに顔を合わせた甥1号2号がもう春にはそれぞれ進級することに驚いたり、弟と同じ習い事を始めようとしていることを聞いたり。そういえば、ことしは無職じゃないからお年玉をあげなければいけない。年始までにポチ袋の用意をしなければ。

 失敗したって、またこうやって進める。致命傷を負わなければ、どうにだってなるのだ。来年はもっと自由に、なりたい自分を見つけられるように、足取りを軽くして生きていきたいとおもう。