死生感覚

暗い記事なのでそういうのが苦手な人はおすすめできないです。

初めて死に触れたのは中学生の時だった。
祖父の葬儀。
寡黙でお酒が好きで糖尿病、インスリンの注射を自宅で打っていたのを思い出す。
今思えば老衰だったんだろう。
あっけなくその時は来た。

病室のベッドで酸素マスクを付けられ、
心停止。傍らには何人かの親戚。
お医者様が見込みのない生命維持をするかどうか聞いている。

『○時○分 ご臨終なされました』

さめざめと泣く親族たち。

僕はというとぼんやりその様子を眺めながら、

この人たちは田舎にも普段帰ってこなかったのにどうして泣いているんだろう

と思っていた。
涙は一滴も流れなかった。

冷めていたわけではない。
不思議だった。
普段交流のない孫たちも泣いている。

ただそれを不思議がることが他者との齟齬であると今なら分かるが、
今にしてなお、やはり違和感は拭えない。

泣けなかった僕が異常者だったのか、とも思うが、その時死生観という物が発露したようにも思う。
掘り下げればもっと幼いときから死は僕に寄り添っていたが、それは今回は割愛する。

時は流れ、死やそれに付随する精神的な病について僕は興味を持ち勉強するようになった。
それに魅入られていることに自分では気付いていたが、元々本の虫だった僕はソレ系の雑誌や書籍、
インターネットの記事を読み漁った。ありとあらゆる物を飽きるでもなく読んだ。
結果僕の死生観は少年時代となんら変わらなかった。
死はただそこに当たり前にあるもの。それが結論だった。

精神病を患っていた母の付き添いで幾度となく精神病院の急性期病棟にも足を運んだ。
本で見た世界がそこには現実としてあった。
鍵付きの病棟
錆びたベッド枠
保護室
叫ぶ患者
笑う患者
薬を飲むために列に並ぶ患者。
若い男性もいる。女子高生らしい女の子も。

南条あやの本の世界。
古い病棟だったせいで余計に本の内容がフラッシュバックする。
別に恐ろしい場所だとは言わない。
ただ、悲しくはあった。なぜだろう、
血筋の祖父が死んだときでさえ流れなかった涙が、
母を見届けて家に帰った後とめどなく流れた。
一人何時間も涙した。

どうしてこんなに悲しいのかわからなかった。
胸が重い。

たぶん僕には彼らや彼女らがとても死に近く、同じくらい生に近く思えたのだった。

寺山修司の言葉を借りるならば、

『死を抱え込まない生にどんな真剣さがあるだろう』

だ。僕の一番好きな言葉。
日々苦しみもがき、足掻く様子に僕はどうしようもなく生や死に対する誠実さを感じた。

とてもそれが腑に落ちたのだ。
中学生のときに感じたあの薄ら寒い違和感より、
僕にはその誠実さが何より重要なことのように思えてならない。

人に当たり前にある死や美しさを、 詩や文で紡いでいます。 サポートをしていただければ製作の糧になります。 是非よろしくお願いいたしますm(__)m