2人の道 #月刊撚り糸 【短編小説】2300文字

仕事用に使っているエルベシャプリエのカバンは淡いラベンダー色だ。
路肩の雪は解けて、コンクリートが道の主であることを主張するように広がっている。
まだスプリングコートに切り替えるには早すぎるが、ローヒールのショートブーツからハイヒールへの履き替えが、コッコッコッという音と共に季節の移り変わりを感じさせてくれる。
奮発して買ったカバンが一番似合う時期ころ、クリアファイルに白い長形4号の封筒だけを挟み、10年前に入社式を行った本社に向かっている。

3階建ての本社の駐車場には白い社有車がまだ数台停まっている。
普段乗っている軽自動車と違って、社有車に乗ると身体がシートに埋もれて地面の近くを走っている感覚になる。リアガラスも狭いから、運転する時は毎回走り始めは戸惑いから始まるが、すぐに慣れていく。
私の車はいったん手放す予定だが、今後私も運転するであろう宮間みやまくんの車は普通車のSUVだから、社有車のあの感覚はおそらくもう味わうことはないだろう。

自動ドアをあけると受付ロボットが静かなエントランスに佇んでいる。
白いつややかなボディに大きくまあるい黒い目が愛らしい。
いつ動き出すのかと少しドキドキハラハラしながら距離を取って前を通り過ぎるが、胸元のタブレット画面が明るくなっただけで、少しがっかりした。
あの部屋に入る前に、誰かと挨拶でもしたかったのかもしれない。

社員証でドアを開けて、長く続く廊下をハイヒールの音を響かせて歩いて行く。コッコッコッ。
2つ目のドアを開けて踏み出すと、急に辺りがふんわりと静かになる。
黄緑色の柔らかいカーペットが真っ直ぐに伸びている。
片側の窓からは白い雲と青い空が見える。
クリアファイルと一緒にカバンに入れてきた折り畳み傘の出番はなさそうだ。

この2つ目のドアには約束の10分前までには着くようにと、上司から言われていた。
ここからあの部屋まで10分かかるなんてことは、ない。
10分歩くとなると、降りたバス停から本社までの歩いてきた道のりほどある。約束の時間は11時なのであと15分。
まだこの時期には珍しい青い空に気を取られていたが、窓枠と天井との間20cmを見ると、ずらりと写真が飾ってあった。
昭和50年から4月1日日付の写真。1列目には堅苦しいおじさまたちが座り、2列目以降はまだスーツに着られている若者たちが、銀色のフレームの中に肩を強張らせて立っている。
外での写真もあれば、室内での写真もある。
平成2年の写真は1枚には収まらなかったのか2枚ある。
上司の若かりし姿もその中にあった。
ゆっくりゆっくり、身近な先輩の面影を写真で見つけていく。
なんでも器用にこなす先輩はちょっと萎縮した感じで見つけ、いつも偉そうな先輩は写真では静かで真面目そうに、最近見なくなった先輩は笑顔に自信を貼り付けて、写っていた。
平成23年4月1日、あの頃から変わらないと自分だけが思っている顔を見つけた。

後輩たちの写真が途切れると、反対側には光沢を抑えた金色のフレームで昨年度の資格保有者の一覧が張り出されている。数ある資格の中に自分の名前を3級の欄に見つけた。
勤務場所である事業所にも同じような一覧が壁に画鋲でそのまま貼ってあるが、まじまじと見たことはなかった。見ている姿を見られたくない気恥ずかしさ。
秋の試験で2級に合格しているから、今年度の資格保有者として載っていたかもしれない。

Y字路に着いた時はちょうど約束の5分前だった。
後ろを振り返ると25mもないような黄緑色のカーペットが真っ直ぐに伸びている。
周りに人がいないことは明らかだけれど、クリアファイルから白い封筒を誰にも見られないように取り出してみた。
10年以上振りに万年筆を使って書いた。
小学生の頃に母親と一緒に習っていた書道教室を思い出す。

日曜日の18時から始まる書道教室には、母親と一緒にそれぞれ自転車に乗って通っていた。
硬筆と毛筆。
習っていたからといってノートの字が上手というわけでもなく、書初め大会で賞をもらうわけでもなかったが、そういえばいつも偉そうなあの先輩から郵便物の宛名書きをよく頼まれていたことを思い出した。
硬筆は鉛筆からいつの間にか万年筆に変わった。
その時に使っていた万年筆はもうどこにあるかもわからないが、このために新しく買って練習もした。
宮間くんにはボールペンでもいいんだよって言われたけれど、感謝の気持ちと大丈夫だからという強がりを込めて、気品ある文字になるような気がする万年筆を選んだ。
書道教室の帰り、電灯に照らされた真っ暗な夜道は車が通ることも稀で、自転車で母親の後ろについて行った。
バレたら注意されるのに、真っ直ぐ運転するよりクネクネと蛇行しながら、時には危なっかしくハンドルから両手を離して、自転車をこいでいた。
そういえば、雨の日はどうしていたか覚えてはいない。

最後の手続きとして、直属の上司ではなく、総務のトップに直接この封筒を渡さなければならない。
わざわざ本社まで行って渡さなくとも上司が受け取ってくれるか、社内メール便で送れば交通費の精算もなく微々たるものだがコストを費やすこともないのにと思っていた。
今はこの決まりが、総務事業部長室に続く黄緑色のカーペットの道をゆっくりと歩かせるためなんだろうと思う。

結婚してもうすぐ2年。宮間くんの転勤が決まって、ついて行く。
いつかこうなることはわかっていたけれど、この会社で過ごした日々を振り返って、決していい思い出ばかりじゃないのに、終わってしまうことが悲しくなった。
Y字路に差し掛かって引き返したくなる人も、何も思わずに進んでいく人もいるだろう。
ちょっと横にずれるけれど、新しい道を歩き続けていくだけ。

分厚そうなドアを軽くコンコンとノックした。

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