#月刊撚り糸 2人の境目【短編小説】1900文字

「パパ、おやすみなさい。ママ、おやすみなさい。」
階下からお姉ちゃんのいつもの挨拶が聞こえた。
お姉ちゃんはお風呂から上がって2階の部屋に戻る時、必ずパパとママに『今から寝るからね』という意味をたっぷり込めて、おやすみなさいを言う。

お姉ちゃんが部屋に入ってきた。
机に向かって座り、一番下の鍵付きの引き出しを開ける。
私達の部屋は大きな1つの部屋だけどドアが2つある。部屋の真ん中をカーテンレールで仕切り、西側をお姉ちゃん、東側を私で分けて使っている。
でも、エアコンは1台のみ東側に付いているので、カーテンは寝る時以外はほとんど開いている。

パパの大きなお弁当箱のような、黒いケースを取り出した。
黒いケースの中からビューラーを取り出して目元にあてる。お姉ちゃんの丸くて大きな目がますますくりっとする。
すぐにブラウンのマスカラをカールしたまつげを押し上げるように塗っていく。前にどうして黒色じゃないのって聞いたら、ブラウンの方が愛らしくてナチュラルに見えるからと答えてくれた。
確かに。
リップクリームより豪華な外装のスティックから真っ赤な紅を出して唇をなぞる。『んぱっ』と音がする。

お姉ちゃんが立ち上がって、私の方を見てニコッと笑う。
パジャマを脱いで、クローゼットから特別な服を出す。
黒の透ける素材のブラウスに黒のレースのショートパンツ。色白で細身のお姉ちゃんによく似合う。
仕上げに金色の大きなフープ型のピアスをつけ、最後にあの引き出しから黒いハイヒールとプラダのリュックを取り出した。
「じゃあね。窓、開けておいてね。」
洗い立てのさらふわの髪が揺れてピアスが月明りに照らされると、お姉ちゃんはいつも通り、窓からするりと夜の中に飛んでいった。


私とお姉ちゃんは3つ違いだ。私が中学生になる頃、お姉ちゃんは高校生になっていた。
お姉ちゃんは中学校では新体操をやっていて全国大会にも出ていたが、高校は新体操部のないところに進学した。
中学最後の大会で手首を痛めて、無理ができないらしい。
妹の私はお姉ちゃんが新体操を辞めた理由を聞かれる度にこう答えている。本当の理由は知らない。普段の生活で手首が不自由なところは見たことがない。

お姉ちゃんが夜に出かけて行くようになったのは、高校生になってすぐの夏休みからだった。
高校生の夏休みだから特別なことをしているのかと思っていたけど、それは不定期に夏休みが終わっても続いていた。もうすぐ1年。
何回かちょうど帰ってきたお姉ちゃんを寝ぼけ眼で見たことがある。
4時頃に帰ってきて、黒いケースからメイク落としシートを取り出し、名残惜しそうに窓の外を眺めながら顔を拭いていた。


朝起きてリビングに行くと、朝食を食べているお姉ちゃんの頬にうっすらとひっかき傷があった。
「寝ている間に爪でひっかいちゃったみたい。」
お姉ちゃんはさほど気にすることもなく、私が大好きなイングリッシュマフィンにクリームチーズとイチゴジャムをたっぷり塗って頬張っている。
私はバターを塗ってシンプルに食べるのが好きだ。
「今日は友達と図書館で夏休みの課題やってくるね。お昼はその友達と食べるよ。夕方に帰ってくるね。」
さっき帰ってきたのに、今度は制服を着て玄関から出かけて行った。
この頃からお姉ちゃんに傷が増えた。
現役から2年近く経っていて身体がなまっていそうだったし、窓から出入りしているから木の枝にでもひっかかったんだろうと思っていた。
頬だけじゃなく、背中やお腹、普段見えないところにも傷があることは知っていたんだけれど。


朝方、ガシャンという音で目が覚めた。
「ごめん、起こしちゃった?」
ベッドから身体を起こして少し見上げると、お姉ちゃんがドライバーでカーテンレールを外していた。その頬に今までより大きな傷があった。
「こういうことだから。」
お姉ちゃんはカーテンレールと赤いボールペンでえぐったような傷を交互に指さした。
2人で起きた後、ママは大慌てで軟膏を探してお姉ちゃんの頬に塗り、パパに皮膚科か整形外科かどっちがいいのかを聞いていた。
お姉ちゃんはそんなママとパパを見ないように、私の大好きなイングリッシュマフィンをプレーンで頬張っている。バターを塗ったらいいのに。

その夜、お姉ちゃんは真っ赤な唇を隠すように最後に黒いマスクをしていた。何事もなかったように、朝に見た頬の傷も隠れていた。
「クールでしょ?」
黒いサテンのブラウスは蛍光灯の下で艶やかだけど、お姉ちゃんのまるくて大きな目からは最初の頃に感じた愛らしい輝きがなくなっていた。
「じゃあね。窓、開けておいてね。」
洗い立てのさらふわの髪が揺れて、お姉ちゃんは窓からするりと闇の中に落ちていった。

しばらくして私は立ち上がり、ガチャリと窓を閉めた。

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