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玉子焼きと天気雨【短編小説】2000文字

9月24日(土)
十津川教授、おはようございます。
僕は昨日から三上みかみにある、あのゲストハウスに来ています。
覚えていらっしゃいますか?
教授から撮影係として声をかけていただき、山岳写真家を目指すきっかけをいただいた北アルプスに、これから登ります。
あの時は初夏でしたが、念のためアイゼンやピッケルを用意しておくようにと教授に言われていたのに忘れ、ここのオーナーに借りたことがとても懐かしいです。
今は山に登る時、必ずアイゼンとピッケルは持って行きます。
お守りのようなものでしょうか。


五木いつきケイタは書いていた日記帳のページにペンを挟んでから閉じた。
これから山登りをする身としては、そろそろ朝ごはんを食べておいた方がいい時間である。
ごはんは先ほど炊き上がった音がしたし、味噌汁は昨夜の残りをオーナーがスープカップに取っておいてくれたため、温めるだけだ。
「やっぱ玉子焼きだよな」
ケイタはリビングからキッチンに向かい、冷蔵庫から卵を3つ取り出して、転がらないように布巾の上に置いた。シンクの角でこつんこつんと卵にヒビを入れる。
『ほら、またそうやるから殻が入っちゃうんだよ』
ケイタはマリアが言っていたことを思い出し、残りの2つは平らな台の上で卵にヒビを入れた。

マリアに出会ったのもこのゲストハウスだった。
あの日、十津川教授と一緒に来たのは別の大学に通っていたマリアだった。
高山植物の研究をしている十津川教授の娘らしく山登りが好きだが、通っている大学には山岳部がないため、山登りの機会として教授に同行していたのだ。
あの時も今も、胸を隠すようなマリアの長いふわふわの髪は変わらない。
ケイタはあの時、長い髪は帽子やヘルメットを被ったり、水が貴重な山での洗髪に邪魔じゃないかと思っていた。
今はマリアの至る所にキスをするとき、ケイタを邪魔してくる。

箸でボウルに割り入れた卵を混ぜる。
黄身をほぐし、白身は箸の先を少し開いてコシを切るように、黄身と白身がなじむまで泡立たないよう混ぜていく。
別の容器に白だしと片栗粉を入れてしっかりと混ぜ、卵とゆっくり合わせていく。
片栗粉を入れているのは、ケイタの実家で母親がやっていたからだ。
ふっくら焼き上がりるし、巻きやすくもなるのだが、マリアはよく失敗してスクランブルエッグにしてしまう。
玉子焼きはケイタの担当だ。

温まった四角いフライパンに油を垂らしてなじませ、卵液をそっと注ぐ。
ゆっくりとフライパンの底一面が黄色になっていく。
ケイタは教授やマリアと見たミヤマキスミレを思い出していた。
山岳部で登ったときに撮ったケイタの写真を見て、教授が北アルプスに誘ってくれたのだが、この北アルプスの地面に寝そべって撮ったミヤマキスミレの写真が、ケイタに初めての大賞をもたらしてくれたのだ。
あれから4年、この大賞を越えるような写真をケイタは未だ撮ることができない。

朝ごはんを食べるため、日記帳を置いていた席に戻ったが、外の様子を見たくなり、窓側のカウンターに席を移した。
トレイに置いた味噌汁では、油揚げと玉ねぎと人参が揺れている。
大盛によそったご飯からはまだ薄っすら湯気が見え、これを鎮めるように茄子のよごしをご飯の上に乗せた。
よごしはオーナーの出身地の郷土料理で、あの日の朝ごはんにも食べた。
6つに切った玉子焼きの表面はつやつやと金色に輝き、その断面は美しく、今日の山岳撮影ではいいものが撮れそうな予感をさせてくれた。
「いただきます」

一通り食べ終えると、ケイタはトレイを横に置き、書きかけの日記帳を開いた。
危険な場合もある山登り。
あの日、オーナーに借りたアイゼンとピッケルに助けられてから、山登りの時には必ず日記帳を誰かに宛てるように書いている。


僕はまだスタジオ撮影のアシスタントが仕事のメインです。
連休が取れたときは山に登って撮りためています。
来月に小さな個展を開くことになり、そこに北アルプスでの写真を展示したくて、これから登るところです。
この時期だとまだミヤマリンドウは咲いていますかね。

教授に先にお伝えするのはおかしいかもしれませんが、マリアさんと結婚したいと思っています。
まだ写真家と名乗ることもできない身ですが、僕は父親になります。
ここに向かう前、マリアさんが教えてくれました。
お腹に僕との赤ちゃんがいるから、無事に帰ってきて欲しいと。
わかった、とだけ言って出てきてしまいました。
正直、今まで山岳写真家になるにはどうしたらいいのか、だけを考えていました。
マリアさんを愛しています。
マリアさんとはこの先もずっと一緒にいたいですし、誰かに取られたくありません。
マリアさんは僕が幸せにしたいし、家族になりたいと思っています。


ちょっと照れ臭くなり日記帳から目を逸らして窓の外を見ると、太陽の光が注ぎ始めていた。
目を凝らすとキラキラと雨粒が見える。
「幸せにしたいってカッコつけすぎ。今はただ、マリアと幸せになりたいんだよな」
ケイタは最後に残しておいた玉子焼きを口に放り込み、決意を新たにした。
「ごちそうさまでした」
ここを出る頃には空に虹がかかっているだろう。

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