〈裏〉熊野大学――2023
1、〈裏〉熊野大学とは
2023年秋、熊野に行った。「中上健次の足跡をめぐる旅」と題して、中上健次を研究している私・松田樹とデリダ研究者の森脇透青がホスト役となり、総勢11人で2泊3日の合宿旅を行った。
われわれが所属している批評同人誌『近代体操』も、1号を空間や場所をテーマにしたし、その創刊号の編集責任を担った私にとって空間・場所の問題は中上健次の文学と分かち難く結びついていた。
めんどくさがりな性分であるが、その『近代体操』創刊号の付け足しのような気持ちで、創刊号の企画に関わってくれた関係者たちや、何度も行きたいと声をかけてくれていた面々、口コミで噂を聞きつけたメンバー(そもそも、「じゃあ、やるか」とガイド役をやる気になり、かつこうした乗合旅になったのはオーガナイザーKさんのおかげである)と熊野に旅行に行くことになった。
最終的には、誰からともなく、この旅行は、「〈裏〉熊野大学 2023」という謎の企画名で呼ばれることになった。
ちなみに、毎年夏に行われている公式行事・「熊野大学」とは、何の関係もない。この記事は、2023年秋にきわめて勝手に行った、第1回目の「〈裏〉熊野大学」の記録である。
2、中上健次と熊野大学
そもそも「熊野大学」とは、1990年に小説家の中上健次が創設したものである。
「熊野大学」とは、このように年齢も性別も職業も関係なく、有志の面々が、毎年夏に集まり、議論を交わす試みとして、作家の故郷で立ち上げられたものであった。折しも、冷戦の崩壊、昭和の終わりとさまざまな社会的変動が生じていた時期であり、中上健次も何らかの予感や切迫に迫られていたのかもしれない。
しかし、こう宣言した2年後に、彼は世を去ることになった。没後は、同郷の友人や批評家・文学者がその志を継ぎ、現在まで「熊野大学」の名を冠したシンポジウムが行われるに至っている。
文壇的な最盛期と言えるのは、『中上健次全集』の刊行、『批評空間』『すばる』『早稲田文学』などの文芸誌上の企画と密接に結びついていた、1996年〜2003年ごろだろうか。批評家では柄谷行人や浅田彰や絓秀実、書き手やクリエイターでは青山真治や島田雅彦やいとうせいこうらが、わざわざ東京から大挙して熊野の地に訪れるという「現代版・熊野詣」が見ものになっていた。
青山真治の映画『路地へ――中上健次の残したフィルム』からは、その雰囲気を、あるいは東京からの距離感を窺い知ることができる。
「熊野大学」の試みから伺われるのは、中上健次の作家としての魅力はたんに作品だけでなく、周囲の人間をも巻き込んでしまうその運動力にも存在するということである。批評家から厚遇されたのも、それゆえである。ちなみに、彼のオルガナイザー気質は学生運動の時代から発揮されており、いずれかのセクトに所属したことはないものの、現場に人員を送り込む「手配師」として活躍していたそうである。
根拠もなく人々を集め、その集団を「大学」と名付けて組織してしまう振る舞いは、現在、多くの若者をオルグしている外山恒一の「合宿」や東浩紀の「ゲンロン」とも共通するものがあるかもしれない。冷戦体制崩壊後、右か左か、というイデオロギーによる組織力が弱体化し、大学内での再生産システムも機能しなくなった90年代以降、有効な組織的運動は、旗振り役自身のパフォーマンスだけを頼りにスカウト現場を作り出し、そこで集中的に教育を行ってしまうという方法なのかもしれない(たとえ、それが「企業セミナー」的なものと表裏一体だとしても)。
ところで、「熊野大学」の長年の名物となっていたのは、「あらゆる人が対等の立場で、自由に」という当初の理念を反映した、2泊3日の合宿形式(その昔は3泊4日だったらしい?)の講座であり、その後の飲み会での車座での討論であった。
私自身、学部と修士の頃に「熊野大学」を訪れた時にはまだその伝統が生きており、一度目は小説家の町田康と、二度目は批評家の絓秀実と、畳の上で一緒に話をしたことを覚えている。
ちなみに、絓秀実さんには、その時が初めての出会いであったにもかかわらず、1968年の中上健次について書いたこの論考を、壇上から、発表時間、50分にわたって詳細に言及してもらった。その内容に近しいことは、近年、『絓秀実コレクション』の「あとがき」にあらためて書き下ろされて触れられている。
「熊野大学」では、いきなり3日にわたって相部屋にさせられた各地の「中上ファン」とも、作品のさまざまな解釈を巡って討論したことも覚えている。そのなかには、読んだこともないが何となく噂を聞いて参加したという人もいれば、この地域に赴任してきたサラリーマンで先輩に無理やり送り込まれたという記者もいたし、熊野奥地まで観光することを考えれば一番安いからきたという人もいた。のちに小説家になる宇佐見りんも(エッセイ等で「中上ファン」の一人として巡礼したと書かれていることから)、その中にいたのかもしれない。
しかし、現在、本家の「熊野大学」は、もうそのような合宿形式を取りやめてしまったと聞く。2泊3日の合宿から半日の市営ホールでのシンポになり、名物の車座の議論も無くなってしまった。登壇者の話だけを聞いて解散になる。もちろん、学会などと同じく、運営を続けてゆく上での資金面・体力面さまざまな難しさがあるのかもしれない。100人近くの合宿の運営をボランティアで行っていたと考えると、ものすごい労力である(私が参加したときは、もう合宿形式の終盤期であるが、「定員70人」と銘打っていたことを覚えている。講演ゲストがいることもあり、毎年、かなり早い時期に定員がいっぱいになり締め切られた)。
ただ、少しでも合宿形式を覚えている身として、そういう試みがあったということを伝えておいてもいいのかもしれないと思っている。小説家が晩年にかなりの時間と資金をかけて、立ち上げた試みであるとすればなおさらである(中上健次を研究したい/知りたいという学生も、私より下になれば、もうほとんど合宿の内容について知らない)。わざわざ「中上健次の足跡をめぐる旅」を、「〈裏〉熊野大学」と呼び始めた所以である。
3、「くま」を探すたび
今回は、2泊3日で新宮市内をぐるぐる動き回った。まず最初は、「「大逆事件」の犠牲者を顕彰する会」の方々へのインタビューを行う。
「「大逆事件」の犠牲者を顕彰する会」の世話人である栗林確さん、佐藤春夫記念館・館長の辻本雄一さんが、わざわざ時間をとって、新宮の歴史、そして近代史に大きな影を落とす大逆事件との関わり、佐藤春夫や中上健次の存在について、半日にわたってレクチャーをしてくださった。依頼に快く応答してくださったお二人に、感謝である。
その詳細はここには書かないが、日本の近代史の中でもいまだ明確にはなっていない点が多々ある「大逆事件」に関して、現地でしかわからない貴重なお話を数々聞くことができたし、関連する資料をたくさん準備していただいた。「顕彰する会」の人々の働きかけによって、いわゆる「大逆事件・新宮グループ」として処刑された大石誠之助が「名誉市民」の地位を取り戻したのは、事件から100年以上経った2018年のことであり、新宮では長らく「大逆事件」に関連する話題がタブーとして扱われてきたという。「大逆事件」以前には、関西有数の文化地として、大石誠之助や佐藤春夫ら知識人を多数輩出していた「新宮モダニズム」を誇りにされている様子が印象的だった。
そのほかにも、佐藤春夫の「大逆事件」への反応(「転向」)や、事件に連座した解放運動に積極的であった宗教家らの存在、その運動の中で解放される側にいた被差別部落の生まれた中上健次の新宮への愛憎、さまざまに話を聞いた。近代史の裏面を講義するような「大逆事件」話の中に、時折り中上健次の「大逆事件」への解釈が知人の話として差し挟まれるのが印象深かったし、新宮の地を実際に歩いてみると、そうした重層的な歴史が身体感覚として理解することができた。「「大逆事件」の犠牲者を顕彰する会」の建物から、約半径500m以内に、熊野信仰の一角で天皇の行幸が盛んに行われた熊野速玉大社や神倉神社、「大逆事件の犠牲者を顕彰する碑」、佐藤春夫の生家、中上の故郷の被差別部落さえ収まってしまう。
インタビュー後は、私と森脇透青がメイン発表者となって、新宮市内の丹鶴ホールを貸し切って、伺った内容や中上作品に関する討論。結局、飲み会を挟んで、民宿に帰って深夜まで議論が続き、最終的には演劇関係者もいたので作品朗読(?)にまで及んだ。
3日目は、前日に伺った新宮近代史を踏まえつつ、この地の熊野信仰に関わるスポットに足を運んだ。新宮市内にある神倉神社と熊野速玉大社である。特に、熊野速玉大社では、翌日が御船祭であることから、例大祭を行っており、それを見学することができた。
御船祭は熊野水軍の名残であると言われており、すぐ横には熊野川が流れている。その熊野川を越えれば、三重県となるが、和歌山・三重・奈良の山間部一帯は「熊野」という独特の政治・文化圏を形成していた。「大逆事件」のフレームアップと同様に、その強大な力を削ごうと、近代化に伴って三県に分断されたとは、この地方の人々が口を揃えて言う話である。
夕方には、新宮駅に帰る。速玉大社からの道中には、中上健次の故郷である被差別部落を通る。かつてそこは山で分断されていたが(山の端に差別されていた人々が押し込められていた)、現在は山が切り崩されて、かえってそこが新宮駅に直結した街の中心部になっている。山を切り崩す政策は、新宮市と現在新宮駅のすぐ近隣に立つ商業施設が合同で行ったものだ。
大江健三郎は『万延元年のフットボール』にて「スーパーマーケットの天皇」という存在を村の権力者として虚構化したが、中上の故郷の場合はいわばそれがリアルな土地を巡って起きている。速玉神社から新宮駅へ、15分ほどの距離であるが、そこを歩くことは、中世と現代、俗と聖の間をめくるめくような体験である。新宮市内は「山と海と川に囲まれた」(「岬」)狭い箱庭のような土地であるが、その都度、ガイドやインタビューをして情報を得ながら駅の周辺を巡るので(時間が余って立ち寄ったに過ぎない思いがけない場所で、「昔、わし中上さんと飲んだで」というオジと出会ったりもする)、旅行中、何度も場所の意味が書き変えられてしまう。
「〈裏〉熊野大学」という試みは、『近代体操』創刊号の付け足しのような気持ちで開催した、と冒頭に述べた。『近代体操』創刊号の編集で私は、人類学者マルク・オジェの提唱した「非-場所」という概念を批判的に検討するということを全体のプロジェクトにしていた。
コンビニ、スーパー、駅、ホテル、流通倉庫、消費のために最適化され流動性のみが上がってゆく我々の身の回りの「非-場所」が退屈ならば、一義的で無意味なその空間から身を引き剥がし、意味を書き換えねばならない。日本の都市の発展を見れば、駅や刑務所・病院といったいわゆる「迷惑施設」は、被差別地域やスラムとされている地域に置かれ、便利で快適な生活のバックヤードを押し付けられてきた(吉村智博『大阪マージナルマガイド』参照。この本は、まさにガイドをしながら、何度もあなたの周囲の場所の意味を書き変えてしまう体験を提供する)。「非-場所」の退屈さは、バックヤードを見ようとしないことによって生み出されているものに他ならない。
しばしば指摘される通り、現在そうした地域は土地の歴史にさほど頓着せず、また地価が安いことから外国人に居住地として選択されることが多いが、我々はコンビニや流通倉庫といった「非-場所」のバックヤードでも同じ事態が起きていることを知っている。にもかかわらず、結果として生まれてくる安全で快適な生活のみを享受し、かつそれを「場所」の磁場から引き剥がされ退屈だと叫んでいるのだ。
「〈裏〉熊野大学」とは、『近代体操』創刊号にて、「非-場所」を退けてそれを支えるバックヤードを探すことを提唱したことの、いわば実践編である。
「熊野」という地名の語源である「熊・隈」とは、「片隅、暗がり、陰になったところ」、そして「隠されていること、秘密」という意味を指す。
中上自身、このような語源的意味を遡りながら、「熊野とは一地方のことではない」と述べていた(そもそも「熊野」とは、現在の日本においては地図上には存在しない・正確に同定し得ない地名である)。「路地は」――つまりはバックヤードは――「どこにでもある」と、中上健次は言う。
「〈裏〉熊野大学」の試みは、バックヤードを探す旅、身の回りの意味を書き変える旅として、これからも続けてゆくつもりである。ひとまず、次は、大江健三郎の故郷である愛媛県大瀬村に行く(行きたい)。
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