2013年6月2日の日記


 今日は井筒を見に行った。久しぶりに都内の奥深くまで行ったので

疲れた。井筒は良かったかどうかと聞かれるとちょっとよくわからない。

くらべる対象がないからだ。もちろんところどころで体の内側が

揺り動かされるような感動は覚えた。しかしそういうものは能の本質ではない。

そういう手軽な感動は映画を見るだけでも、もっといってしまえば

自分の勝手な妄想に浸るだけでもそれなりに得ることができるものである。

能を鑑賞する意義というのはそれらをもう一段も二段も高く越えたところに

ある、と私は思う。



 水道橋といえばすぐ近くに東京ドームがある。あちこちに

ファンキーモンキーベイビーズのTシャツを着た若者たちが

たむろしていた。例の解散ライブの日が今日なのであろう。

私は彼らを横目にみながらコンビニで昆布のおにぎりとお茶を

買って食べた。能を見る前に肉や魚を食べる気にはどうしても

なれなかったからである。近くにうどん屋があったものの

混みまくっていたので断念した。


 能楽堂は混んでいた。あまりにも盛況すぎてむしろ

「もののあはれ」感とか、「世界の果て」感は感じ取ることが

できなかった。満員御礼、というのはどうも能にはふさわしく

ないのかもしれない。


 拍手がかなり早いタイミングでなされてしまったのも

気にくわなかった。やはりベストは演者が全てはけて、

舞台の上が虚無になったころに行うことだろう。

能は虚無の芸能だ。ならば我々は演者たちが

血潮をかけて積み上げたその虚無にこそ賛辞をおくるべきなのでは

ないか、と私は思う。


 やはり正面から見たかった、というのはある。

あの「筒井筒…」の歌を口ずさむ姿は正面から

はっきりと見なければならない。そこで決まるのだ。

今舞台の上で舞っているのが在原業平なのかそれを

演じている里の女なのかそれを演じているシテなのかということが。


 能を見ると自分の中の「面白さ」に関する感覚が揺り動かされる。

地球上のほぼ全ての人にとって能はつまらない。それは確実に事実だろう。

しかしそのつまらなさそのものを能は人生に対する否定的な感情、

やるせなさに変形させてしまうだけの魔力を持っている。

「日曜日に水道橋の能楽堂に行って井筒を観た。」

という経験は

「奈良の滅びし在原寺に行き、里の女の幽霊と会ってきた、

彼女は実は亡霊で、彼女は亡き業平を忍んで業平の

装束を着こんで舞を舞うのを見た。」

という経験とほぼ同じと言っていいと思う。

もちろん能の出来が悪ければとてもそう言うことはできまい。

しかし本当に良い能に出会ったならば

「ああ、私は今日幽霊を見たということにして構わないな」

と思えるようになるのである。それだけの魔力が能にはあるのだ。


 今日の能はなかなかだった。しかしまだ足りない。もっと

何かあるはずだ、と思わせるような能だった。これは

演者に原因がある、ということを必ずしも意味しない。

私の心、精神の方がまだまだ未熟だったがゆえに

完全に楽しむことができなかった、ともいえるのだ。

結局のところ能とは演劇を通して自分の中に深く深く

入り込んでいく芸能である。ならば観客たちも能という

ものを作り上げている一員、いやむしろ真のワキ、シテとも

いえる。自分の心構えがなっていなかったから

今日の能は失敗だった、ということもいえるのである。

(無論それは個人的な、相対的な失敗だが。)


 それにしても井筒はものすごい。直衣をきて、男舞を~

から月やあらぬ~のところまでの舞はおそろしく長い上に

ほとんど動きもない。ほとんど苦行である。

数ある能の中でもかなり玄人むきといえるのではないだろうか。


 なるほど能はつまらない。それは正しい。鍛錬の結果洗練されきった

身のこなし、最高の舞い、一級の謡いによってそのつまらなさを

表現しているのが能なのである。


 演者を見てみるがいい。彼は完全に役、面になりきっている。

普通の演劇、普通の仮面劇では役者はここまで役になりきらない。

ほとんどの役者はその技量がないゆえになりきることができないので

あろうが、十分な技量がある役者でも完璧には役になりきらないはずだ。

なぜなら仮面の微妙なひびから垣間見える役者の素顔というものを、

その程度はともかく、観客が求めているからだ。それは砂漠に

咲く一輪の花、荒野に流れる一筋の川に等しい。つまり、

それがあることによって観客はぎりぎりのところで現実に

踏みとどまっていることができるのである。このひびを意図的に

ふさいでしまうとそれは芸術ではなく宗教になってしまう。


 能はほとんどこのひびをふさいでしまっている。

演技も、演技にともなう黒子の行動も何もかも全てあますところなく

様式化してしまっている。それはもう度がすぎているなどという

レベルをこえている。


 そう、能は完璧だ。何もかもが洗練されている。まさに美の極致である。

しかしそれらが組み合わさった結果生まれるのはつまらなさ、虚無なのである。

これは一体どういうことなのだろう?


 ひびをふさげばそれは芸術ではなく宗教となってしまう。

私は先ほどそう言った。宗教とは何か?それはつまりからだを

ぶるぶると震わせるような感動を与えるものである。人を否応なしの

行動へと駆り立てる感動を与えてくれるものである。

キリスト教を見よ、クラナドで泣きまくった鍵っ子たちを見よ、

彼らは感動し、その結果行動するのだ。他人にもこの感動を

わけあたえたい、という純粋な善意によって。

 しかし能は感動を与えるだろうか?もちろん

個々のたちふるまいのすばらしさ、詞章のすばらしさに

感動はする。しかしそれは感動させられているというよりは

観客の方で前のめりになって感動しているのである。

全体で見れば、能はむしろ観客を感動させることを徹底的に

避けているようにみえる。

 能は現実への抜け道、ひびをほとんど完璧に閉ざしてしまう

芸能である。それをやると普通は芸能ではなく宗教になってしまう。

しかし能は限りなく宗教に近い、いやその構造としては

ほとんど宗教と同じなのにもかかわらず、実質としては

宗教とは程遠い。映画やゲームなどよりもずっと遠い。

およそ芸能と呼ばれるものの中で一番宗教から程遠いのである。

それはなぜか?なんどもいっているように感動を拒絶しているからである。

正確にいえば普遍的な感動を拒絶しているのである。


 もちろん能でも感動はできる。無個性な人形にむしろ

簡単に感情移入できるように、徹底的に役者の個を消した

能にはある種の人々は容易に感動することができるだろう。

しかしその場合の感動はいわば自家製の感動なのである。

自分の中から感動の能を取り出して、目の前の能という劇に

憑依させて感動するのである。その場合感動の責任は

観客にある。


 能ほど演じている人間の個性を消す劇もあるまい。

今日のシテの桑田貴志は冒頭で挨拶をし、

後に井筒でシテとして出てきた。しかし私は

まったく2人の人間を同一人物として頭の中で結びつける

ことができなかった。それはつまり桑田が井筒の女を

完璧に演じたということである。もちろんそれは本人の研鑽のたまものでもある。

それに加えて能という芸能そのものが演じている役者と演じられている役を

切り離す鋭い刃をそなえているというのも大きな理由だろう。

たとえば、今日の能、舞台裏でいきなり桑田が病気か何かで倒れた、

急遽亡霊が舞台の上に立ったのだ…といわれても私は別に驚かない。

そちらの方がずっと自然だからだ。それだけ役者と里の女の像は

かけはなれているのである。


 とはいえ役者と役の違い、というのは能の主題ではないだろう。

役者が毎回舞台挨拶にでるわけではないからだ。

能はまさに廃墟なのである。芸能の廃墟、演劇の死体。それが

何食わぬ顔して観客の前で演じられている。廃墟だから正確な

意味では観客は劇の中へは入っていけない。あくまでも自己の

物語を廃墟に投影させ、その中へ入っていく。だからそれは

あらゆる意味で夢なのだ。おきながら見る夢、自分にしか理解することの

できない感動…それらこそが廃墟が与えてくれるものなのだ。


 江戸時代にはもうちょっと能も違う意味合いを持っていたかもしれない。

すでに当時人々は能をつまらなく思っていたとはいえ、

それでもそれなりに前向きに能をとらえてはいただろう。

しかし徳川家の庇護をうけてなんとか存続していた能は江戸幕府が

倒壊したことによって一度完全に滅びた。そしてその後で海外から輸入した

古典再評価主義の恩恵をうけて能は復活した。この工程を踏んで

さらに100年以上もの時を経て、いよいよ能は虚無的性格を

強めたのではないだろうか。江戸時代には謡いはむしろ流行していた。

しかし現代において謡いを聴いて涙を流すという人は少ないだろう。

いよいよ肉はこそげおち、能は白く輝くしゃれこうべとなる。

絹よりもダイヤよりも輝きを放つ骸骨になるのだ。



 市場としてこれからも能が成り立っていけるのか、それは全くわからない。

しかしただ一つ確実にいえるのは能が救いになる人は間違いなく

いるし、これからも一定の数存在しつづけるだろう。物語にからめとられ、

そして未練を残しながら脱出する…それは身を切るようにつらいことだ。

下手をすれば身に深い傷を残すことになる。そういう類の傷に

疲れ果てた人には能が何よりもの癒しとなることは間違いない。

傷は消えはしないだろう。しかしきっと能はその傷をなでて理解はしてくれる

はずだ。ワキがシテの苦悩に耳をかたむけてくれるように。


考えがまったくまとまらない。また何か思いついたら書くかもしれない。

しかし今日はとりあえずこの辺にしておこう。

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