2013年1月15日「薄皮」

 僕はかつては貴族だった。資本家と言い換えても

かまわないと思う。何不自由なく15歳まですごし、

その時初めてそれまで立ち入り禁止だった

地下の仕事部屋に父が入れてくれた。


 そこには機械があった。とても大きな機械で、

果てまで見通すことのできないその地下室の

ほとんどをその巨大な機械が占めていた。

そしてその機械にこれまたたくさんの人々が

くっついてあれこれと動き回っていた。

彼らは働いているのだということがなんとなくわかった。

彼らは汗水たらしながら一生懸命に

機械をいじったり、機械の中にもぐったり、必死で何かを

メモに書き込んだりしていた。


 父は機械のことについてはあまり説明をしてくれなかった。

父も詳しくはよくわからないのかもしれないと僕は思った。

気になったことをあれこれと聞いてみても父は困ったように

笑うばかりだったからだ。父のそんな顔を見ていると、

僕もだんだん機械そのものに対する興味を失っていった。

 しかし、父は機械の入り口と出口についてだけは

説明してくれた。それが父の仕事にかかわるから

とのことだった。父は真っ白な大きな紙を取り出して

機械の入り口に入れた。そして遠く離れた出口に

向かっていった。出口からは入り口に入れた紙よりは

小さく、何か複雑な模様と番号が書かれた紙が出てきた。

父はそれらの紙を取り出し、決まった枚数ずつに取り分けて

紐でまとめて、頑丈そうなかばんにしまいこんでいった。

その紙がつまったかばんを大量に用意し、

鍵のついた小部屋に一つ一つ丁寧にしまいこんでいった。

一仕事終えた父は腰をとんとんと叩いて

一息つき、僕の方を向いてにこりと笑ってこういった。

「これが、私の仕事だ。」

言ってから父は機械の方を見渡した。なおも多くの

人が働いていた。どこか遠くの方で爆発音がきこえ、

それに続いて人々の騒ぐ声も聞こえてきたが

父はそちらの方に目もくれようともしなかった。

その程度のことは日常茶飯事とでもいうかのように。

「そして、これをお前は継ぐんだ」

機械をぼやけた目で見つめたまま父が言った。


 やがて僕は20歳になってから本格的に父の仕事を

手伝うようになった。といっても別に覚えるようなことは何も

ない。ただひたすらに紙を入れては取り出す毎日。

やがて父は死んでいったが、別段それで困るようなことは

何もなかった。僕はもう完全に仕事を覚えてしまって

いたのだ。

 退屈な毎日の気分転換として僕は芝居を好んだ。

劇場の上で役者たちは土を耕し、機械を操作していた。

恋人と愛を語らい、羊と孤独について語らっていた。

僕はそれらの光景を見ると、何か心についた

錆のようなものをある程度ぬぐいさることが

できた。

僕は一度役者の控え室に招待されたけれど、

そこは何か嫌な匂いのする煙が充満していて、

僕は咳がとまらなかったので挨拶もそこそこにすぐに

出てきた。そして僕は控え室なんてところには

2度といかなかった。


 ある日、僕は芝居が終わり、劇場の清掃が

終わってもなおそこに残っていた。

明かりも全て落としてもらい、真夜中まで

そこで眠っていた。暗闇の中目を覚まし、

手探りでスイッチをつける。冷たく思い空気が

足元に充満している。人々の汗のすえた匂いが

鼻につく。よくみれば埃やゴミがあちこちに

落ちている。僕は舞台に向かって歩き出していく。

整然とならべられた椅子の間をわざと縫うように

歩いていく。舞台の正面にたってそれを見上げる。

僕は舞台の上によじのぼろうとさらに近づこうとする。

しかし僕は前に進むことはできなかった。舞台と

僕の間には薄い皮が一枚張っていて、

それ以上前に進むことができなかったのだ。

僕はその皮をつまんだりなぐったり色々したけれど結局

破りさることはできなかった。

 やがて僕は仕事を失う。紙を入れても

うまく模様が印刷されなくなってしまったのだ。

品質が下がったせいか、作り上げた紙もだんだんと

売れなくなっていった。給料が払えなくなったからか、

働いていた人々はどんどん去っていった。品質は

どんどん落ちていって、ついには機械に紙を入れても

うんともすんともいわなくなってしまった。

僕は仕方なく家を手放した。

 大好きな芝居を見ることができなくなるのはいやだったので、

僕は劇場に清掃員として雇ってもらった。芝居が終わる度、

観客が交代するごとにほうきとちりとりでゴミを取り除いていく。

人々はゴミを掃除する僕のことはまるでいないものとして

扱うのでうまく仕事をすることができない。次から次へと

紙コップや食べかけのお菓子が捨てられていく。

それらを拾い集めることだけが精一杯で、とても

隅っこの埃や汚れをぬぐいさることはできなかった。

でも人々はそんな細かいところの汚れなんて

全然気にしていなかった。芝居が行われている間は、

照らされているのは舞台だけなのだから。

そしてひと時だけ観客席に明かりが戻るころには

彼らはもう外の、青い空の下で

今みた芝居の感想を言い合っているのだから。

 清掃員にもなっても依然として

舞台の前に張られた薄皮をやぶることはできなかった。

支配人にいくらどやされても僕は舞台にあがることは

できなかった。いくらなにをやっても、どうしても。


 やがて芝居も人気がなくなり、劇場もつぶれた。

支配人は夜逃げしたので最後の一月分の給料は

出なかった。着の身着のままで僕は

旅に出た。価値のあるものは全て売ってしまったので、

手紙とかライターとか、そんなものしか僕の手元には

残らなかった。だけどそれらは僕にとっては大切な

宝物で、決して手放したくはないものだった。

しかし僕はそれらを布にくるんで、直接手を

触れることはしなかった。触って汚したくないからか、

触って汚れたくないからか、自分の気持ちを

はっきりと言い切ることはできなかった。


 僕は初めは街を転々としていた。

少ない貯金を切り崩して安宿にとまるということを

繰り返していた。しかし貯金はすぐに尽き、

働かざるをえなくなった。

 僕は清掃員を募集していたパン屋に

入り、雇ってもらおうとした。しかし

パン屋の入り口にはあの薄皮が張られていた。

いくら足を前に進めても薄皮はほんのちょっと

伸びるばかりで決してやぶれてはくれない。

パンを買うときには簡単に入ることができた

パン屋に、なぜか今はどうしても入ることが

できなくなっていた。

 僕が石鹸屋と初めて出会ったのは

その時だった。ある街で物乞いをしていると

とても細くて高い帽子をかぶった、何かの液体

の入ったバケツを持っている男があたりを見渡しながら

薬局の前にたった。そしてもう一度右と左を首を大きく振って

見てから、彼はバケツの中の液体を薬局の店先に

かけたのだ。するとその液体は店先を水浸しにするのでは

なく、空中で一枚の皮になって薬局の前にはりついたのである。

僕はその光景を驚いた表情で見ていた。僕の視線に気づいた

その男が手を口にあててしまったという表情で頭を

かいた。そして僕のほうに近づいてきてこういった。

「君は僕のことが見えるんだね。いやあまいった。

本当はばれちゃいけないんだけどね。君みたいな

人に。また上司にどやされちまうよ。」


「その液体はなんです?あの薄皮は一体…」

「これ?これは石鹸水さ。これを店の前にふりまくとね。

防ぐことができるんだ。」

「何を?」

「汚れさ。」

男は頭をもう一度ぽりぽりとかいてから、僕の耳元に

口をよせてささやいた。

「ねえ、僕を見たってことは黙っていてほしいんだ。

これはちょっと本当にやばいんだよ。仕事風景を

誰かに見られるってのは一番やっちゃいけないことなんだよ。

まあ僕はいつもやっちゃうんだけどね。

今度ばれたらもう完全にくびだよ。

そしたら僕も僕の家族も路頭に迷う。

だから僕は君と取引しようと思うんだけどどうだろうか?」

 僕は彼の仕事風景を誰かにいうつもりなんてなかった。
 
そもそも誰に言えば彼の上司にその話がつたわるのか

もわからなかった。しかし僕は頷く。

「いやあよかった。うれしいね。

君は僕の失敗について口をつぐむ、

それと引き換えに僕が君に差し出すのは石鹸の製造法だ。」

僕はどう言っていいのかわからずにただ

彼を呆けた目で見ていた。

「なんだか気のぬけた表情だな。いいかい、ただの

製造法じゃないんだ。無から石鹸を作り出す方法を

教えるんだ。どうだい?すごいだろう?じゃあ目をつむるんだ。」


言われるままに僕は目をつむった。

彼の手のひらが僕の額に触れる感触がする。

数秒ほどで彼の手は離れていった。目をあけて

いいかと聞くと「まだだ」といわれた。

そして彼の声が聞こえる。

「一分間目をつむり、口を閉ざし続けるんだ。

いいかい、途中で目をあけたり口を開いたりしたら

やりなおしだからね?じゃあ今から一分間…」


僕は言われたとおり目をつむり、そして口を閉ざし続けた。

かなり長い間そうしていたあとで目を開くともう彼の

姿は消えていた。僕は手を握って石鹸の姿を

イメージしてみる。目をつむって強く強くイメージする。

その後で手を開くと、花の種ほどの大きさの

石鹸のかけらが確かに手のひらの上にあった。


 やがて僕は石鹸を作って売って、多少の金を

稼ぐようになった。僕は売るのとは別に巨大な

石鹸を作っていった。毎日少しだけ力を残して、

少しずつその石鹸を大きくしていった。


 

 十分大きくなった後で僕は泉を目指すことにした。

僕はあることを考えていた。僕と舞台との間に

薄皮は今も張られている。それどころか

その薄皮は今も増え続けている。

僕が入っていくことのできない場所はどんどん増えていっていた。

僕が石鹸を作るようになってからそれはさらに

ひどくなっていた。僕が売った石鹸が、僕のことをさらに

追い詰めていっている。僕はそのことになんとなく

気づいていた。僕はもうほとんどどこの店にも

入ることはできないし、かつて大切だった宝物にすら

触れることはできなくなっていた。

 だから僕は起死回生の一手を打つことにしたのだ。

僕は巨大な石鹸を作り、それを泉に放り込んで

石鹸水を作る。そしたらそこにありとあらゆるものを

放り込んでいく。宝物も、板も釘も食べ物も。ありと

あらゆる道具を。そうして全てのものに薄皮を

はらせる。そうして薄皮の張ったものだけで

泉のそばに一つの街を作る。最後に僕は泉の中に飛び込んで

自分の細胞一つ一つまでに薄皮をはる。そして

僕は僕が作った薄皮の街の中で永遠に暮らしていくのだ。

空気も水も僕自身も、家も宝物も、ありとあらゆるものが

拒絶し合っているなら、それらはもう一つのものと

考えてもかまわない。僕はそう思ったのだ。

それは僕の考えた、僕なりの世界との折り合いの付け方だったのだ。


 そして、僕自身の寿命がつきるときには、石鹸水の泉の中に

この身を投げ入れる。やがて僕自身が大きな石鹸となって

地下へと引きずり込まれていく。僕は薄皮に守られて

マグマの大いなる流れの中を何億年もかけて泳いでいく。

やがて海底火山から僕の体は海へと投げ出される。

そして一つの海がそのまま無限の石鹸水と化す。

荒れ狂った海が都市を襲い、全てを薄皮にくるむ。

人々はその津波に気づかない。気づかないままに

薄皮にくるまれ、何事もなかったかのようにそのまま

暮らしていく。薄皮の街で。僕はそんな世界のことを

想像して微笑み、次々と宝物を石鹸水に放り込んでいった。

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