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擬音からの使者たち

おはようございます。ネット原人いつもタツオです。朝方300秒で目を通せる「おはnote」。

今日は江戸時代の俳諧師(はいかいし、俳句の源流)として有名な小林一茶の命日だそうですよ。昔、この人は名前からして茶人だと思っておりました。

ん?なんからしくない立ち上がりになっちゃったな。

んじゃ!いきますか「おーい!!」



すぐにスワル:「祇園精舎…諸行無常。ん?なんじゃ」

いつもタツオ:「これはまた週のはじめに相応しくないのが出てきたな。スワルよ、なんか面白いことないかの?」


すぐにスワル:「そうじゃな。ワシの様に俗世間と距離をおいて生きておると、流行に流されて必死になって生きている人間共がこっけいで最高に笑えるわい。あっワシのプロフィール載せとくぞ。忙しければ飛ばしても構わん」

・すぐにスワル(いつもタツオの幼なじみ)

琵琶の名手と謳われ、遠くからその音色を聴きにくる人もいるほどだ。とにかく太々しい、だたの老荘思想かぶれ。自然に回帰せよが口癖。
彼の奏でる「コイケ物語」は、ラーメンに心を奪われたコイケ一族の栄華と破滅を描いた不朽の名作。「コイケに非ずんば人に非ず」という名言を残した。最後、日清殿がスープに身投げするシーンは多くの人の心を掴んで離さない。


いつもタツオ:「スワルよ。お主の言ってることも最もなんだが、流行も歴史や文化の延長線上みたいなもんじゃよ。最先端のテクノロジーをはじめ、めまぐるしく動き続ける変化の波に巧く乗る事も大切なんじゃ」

すぐにスワル:「愚問じゃよ。確かにインターネットを中心とした近年のテクノロジーの変化は目を見張る物がある。しかし、人間そのものの根本的なところは遥か昔から変っておらんのだ。ワシはひとつの生命体として、それに相応しいリズムで生きておるのじゃ」

いつもタツオ:(うぬぅ。やはり週明け早々に相応しくない内容に踏み込んだか)
「では、スワルに問うぞ。一生命体としてのリズムに、現代人が反しているというのは如何に?」

すぐにスワル:「単純に早すぎるのじゃよ。もっとゆっくり生きるべきじゃ。季節の風を感じるくらいの余裕が必要じゃ。お主は昨晩、星を見上げたか?日常的に自然を体で体感しておるか?」

いつもタツオ:(はぁ。こやつら隠者と議論をすると二倍は疲れるわ...無理やり話をかえるかの)

「そういえば、お主の歌で祇園と言っとったの。ギオン違いだが言葉遣いの擬音語について吾輩はたまに考える」

すぐにスワル:「ほう、擬音語か。ワシは古典を好むので言葉として使うことはないが…」

ベベン♪

「こんな感じかの?近頃は話し言葉に擬音を織り交ぜる者も多いそうじゃな」


・無茶苦茶な話の流れだが、擬音に関して触れていこう。

とにかく現代人は生きるテンポ?みたいのが早くなっているので、どんどん言葉も略語化されていく。

そのなかで話し言葉として、直接意味を持たない。擬音語を使う者も多いと思うのだ。

「キキーッ!」「ガガガッ!」「ドカーン!」

擬音を多用する者は、頭があまりよろしくないとか言われることがある。
まあ確かに言葉に言い表す事ができないから効果音を多用しているので、一理あるのかもしれない。(ちなみに僕の会話は典型的な擬音まつりである)

でも、コミュニケーションの場とかで意外にも擬音って使えるのだ。

擬音の凄いところは、言葉が感覚として刺さるのだ。
「パキーン」と「バキーン」でも何があたったのか、素材的なものの違いが伝わる。場合によっては、強弱も伝わって臨場感が出てくる。

この「擬音」を日常的に多用する人達を仮に「擬音人」と呼ぶとする。

そう、「擬音人」なる人達同士の会話は見事だ。

昨日のボクシング、ヒラっと交わしてバシッと倒した。今日雨が、パラパラきたからサクッと終わらす。

これにボディランゲージと表情があれば臨場感がでるな。

まあ近しい間柄の会話に限るけど、擬音人同士の伝達の速さは凄まじい。


皆さんも、場所や人を選ぶけど擬音使いの効用を楽しんでみてくれ。

今日も一日頑張りましょう!

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