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【感想】いちばん好きな花 1-5話

 作品の中身について触れますので、未視聴の方はご注意ください。

 「一番好きな花はなんですか」と言われて、何を思い浮かべるだろうか。具体的な花の名前が出てくる人もいれば、一番となるとどれにしようか迷う人もいるだろう。

 世の中には、「いちばん好き」を聞かれたとき、それを思い浮かべるよりも先に、一番になれなかった方に思いを馳せる人がいる。この「いちばんすきな花」は、そんな人たちのお話だ。

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 2人組が苦手な4人、というフレーズを聞いて、それを一体どうドラマにするんだと思った。それでも、脚本の生方美久さんとあって、4人といえば坂元裕二さん「カルテット」を彷彿とさせる、と聞いたからには、見ないわけにはいかなかった。

 2人組をつくるのが苦手なたとえ(多部未華子)。それでも塾で知り合った赤田は唯一気の合う相手で、二人でカラオケに行く仲。赤田の結婚により、大切な友達を失うことになる。

 2人組が難しい椿(松下洸平)。結婚を決めた相手に、男友達と関係を持ったと一方的に別れを切り出される。いい人にならないといけない呪いは、椿の感情を封じ込めてしまう。

 一対一で対話するのが苦手な夜々(今田美桜)。そのルックスから男性からは勘違い後に理不尽な叱責をくらい、女性からは意識してかしないでかはともかく嫌み妬みを言われてしまう。

 社交的だけど心を開ける相手はいない紅葉(神尾楓珠)。居場所をつくるためにやりたくない幹事を申し出たり、二つ返事でシフトを代わってしまったり、"調子のいい人"になってしまう。

 そんな4人のお話だが、本当に至るところで「カルテット」のオマージュを感じさせる。
 1話のカラオケボックスは、「カルテット」2話における別府(松田龍平)と九條(菊池亜希子)。1話のコーヒーを注ぎながら話者が変わるのは、「カルテット」1話のコーン茶。3話の椿と純恋(臼田あさ美)の話し合いは「カルテット」4話における家森(高橋一生)と茶馬子(高橋メアリージュン)。5話の夜のコンビニとアイスは、「カルテット」3話のすずめ(満島ひかり)と別府…。意識したと言われてもおかしくないくらい盛り込まれている。

いや、ご入室してないです。
扉の外で、こうやって、この状態で、話しただけで、一歩も入ってません。二人きりになってません!

1話

純恋「でも一回そういう関係になっちゃって、そういうのあるのに、椿くんと結婚できないなぁって思って、って…いったじゃん?」
椿「言われてないなぁ」
純恋「あっ言ってなかったか。言ってなかったとしてもそうなの。」

3話

 上のような台詞から、登場人物たちの人柄、チャーミングさがよく伝わってくる。ポンポンと卓球のラリーのように進む会話の様子はまさに「カルテット」的だ。

あのー、全部、全然美味しくないんですけど

もれなく全部美味しいんで

2話

 2話において、怒らせたと思ってゆくえが菓子折りを持ってくるシーン。建前として、思ってもいない「美味しくない」が発せられる。その後、怒られていないことを確認して、本音である「美味しい」が出てくる。
 「カルテット」同じく2話にて繰り広げられた「行間案件」ならぬ、現実世界において言葉と気持ちが違うところを描く点からは、「カルテット」に通じるものを感じさせる。

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 しかし、「カルテット」に似ていると言うには、登場人物が語りすぎ、言い換えるなら素直すぎる。4話の夜々が母に、5話の紅葉が友人に、素直な気持ちを打ち明けるのは、「カルテット」的見方で見ればヒヤヒヤものだろう。なにより1話のゆくえの語りである。

 あらゆる人数の中で、二人というのは特殊で、二人である人たちには、理由や意味が必要になる。
 二人は一人より残酷。二人は、ひとり居なくなった途端、一人になる。

1話

 長い語りは、確かにドラマの主題を明示するにはわかりやすいが、それゆえに「それを表現するのがドラマでしょ」とも言いたくなる。言葉で説明してしまっては、じゃあ台本を読めばいい話、となってしまう。

 じゃあそれでもなお、どうして人を惹きつけるのかと言われれば、ドラマでありながら限りなく「言葉にする」から、といいたい。

紅葉「なんかふたりとも、別角度の強めのトラウマ、ありそうだけど」

夜々「ふたりとも別角度で強いトラウマ持ってそうですよね」

 ここを見て、あぁこのドラマは「カルテット」と似てるけど、こういうところが違うんだと気づいた。
 このシーン、椿と紅葉、ゆくえと夜々が、互いにいない2人を思い話されるのだが、「カルテット」9話においての巻(松たか子)とすずめの互いに小さい頃を思い浮かべるシーンを「いちばんすきな花」的に解釈するならこんな感じなんだろうと思った。

 言葉には常に公共性と秘匿性がある。別角度の強いトラウマ、と聞いて、誰もが「そういうことね」と納得されるが、実際に思い浮かべているものはそれぞれ違う。
 4人で話したことがあるから、「別角度の強いトラウマ」と言われて笑い合えるのだ。ドラマを見ずに、単にこの言葉を聞いただけではずっとわからない。その人を知っている、その人と会話したことがあるから、この言葉の本意を汲み取れる。

お腹痛いときに、今お腹痛いんだって言える人が、いなくて。

お腹痛いの、人に言ったって治んないし、だから、別にって、思ってたんです、ずっと。

5話

 多様化した現代、同じ境遇に至ったからと言って、同じ痛みを持つわけじゃない。痛みを共有したからと言って、それが解決することはない。どこまでも他者は他者。

 前作「silent」では、そんな言葉にしがたい痛みへの返答が紬の母の言葉によって紡がれた。

病気治せるわけじゃないし、お父さんのために行ってたんじゃないのにね。

「silent」8話

 「いちばんすきな花」でのアンサーは、"耳を貸している"椿によって話される。

 お腹痛い時、お腹痛いって言っても治んないけど、痛いのは変わんないけど、紅葉くんはいまお腹痛いんだって分かってたい人はいて、わかってる人がいると、ちょっとだけましみたいなことは、あるから。

5話

 隣りにいても、電話をしても、痛みが治るわけじゃない。けれど、誰かと繋がれるという感覚が痛みをほんの少し和らげる。「言葉にする」ことで気付く誰かがいる。他者に話してもそれを全て理解してくれるわけじゃない。けれど、言葉にすることで、「痛み」そのものが持つ根本的な不安を、孤独なものでなくさせる。

 生きづらさ、と言ってしまえば一言で終わってしまうその痛みを、ドラマを通じて声を届けていく。だからこそ、椿から純恋へ、夜々から母へ、紅葉から友人へ、声を届けなければいけない。

 最初見たときは、純恋に今さら言わなくてもいいでしょとも思ったし、夜々の母に言ったところでこれまで気づかないような人ならもう届くわけないでしょとも思ったし、紅葉もなんで今さら友人本人にぶつけるかな、とも思ってしまった。

 それでも、その声をその相手に届けることが、このドラマにおいて何より大切なんだ。言わなければ死ぬまでずっと心のなかに閉じ込めたままだった思い。そういうのを言葉にして、声を届けることで、はじめて生まれる秘密がある。解決しなくても、話したそれ自体が自分をつくり、支えてくれる。

 フィクションの世界に「現実ではそんなことできないよ、そうはならないよ」と言ってしまう今、彼ら彼女らはそれを言葉にして、また4人で関わり合う。「言葉にして声を届ける」ことはなんの解決にもならない。むしろ悪化させてしまうかもしれない。

 それでも伝えなければいけない思いがある。話さなければ、痛みは痛みのままで、自分のものになってくれない。自分が自分であるために言葉にする。それは、「silent」で言う「一緒にいたくている」ことと通じるものがある。言葉は祈りで、祈りはどうしようもなくわがままだ。

夜のコンビニに、アイスを買いに行く行為が好きです。

5話

 夜々が椿に向けて言った言葉。言葉は二人の秘密を作り出す。夜のコンビニに出かけた椿は、その言葉を思い出すかもしれない。言葉にはそういう秘匿性があり、だからこそ孤独に押しつぶされそうなときも、ひとりで生きていけるのだ。

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紅葉「お邪魔しました」
椿「…なんていうんだろうね」
紅葉「何がですか?」
椿「いってきますにはいってらっしゃいだけど、お邪魔しましたーって、お邪魔…じゃなかったですよー、…?」
紅葉「…またおいで、じゃないですか?」
椿「そうか」
紅葉「…お邪魔しました」
椿「またおいで〜」

5話

 このシーン、松下さんのなんともキュートな演技が見どころなのは言うまでもないが、男女の友情は成立するかというテーマを見事に落とし込んでいるように感じる。

 これまでになかった、「お邪魔しました」に対する返答を、2人で会話することで見つけ出す。それは2人でしか通じ合えない暗号のように、相手との思い出になっていく。言葉とは誰にでも対話できるコミュニケーションツールでありながら、誰かとの思い出を内在するものなのだ。

 車とか、ママパパ、友だち、恋愛とか、一つひとつ覚えてきた私の言葉には、それを言ってた人、それを教えてくれた人がいて、その思い出とともに使っている。痛みを伝えることは、何より思い出に向き合う姿勢なのかもしれない。

 男女の友情があるかないかの議論は他の人に任せるとして、そういう議論を生むこと自体が、このドラマの魅力なんだと思う。
 「どう思う?」という会話を、家族間で、あるいは友人間で、あるいは目下男女で友情を育んでいる者同士で繰り広げられることが、現実世界の"ドラマ"を動かしている。4人の話を私たちが聞き、誰かと共有することが、なにより私たちの痛みをましにしてくれている、そんな気がするのだ。


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