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【七十二候】「草木萌え動く」【第六候】

「雨水」も「末候」に突入!


今日は昼過ぎから雨模様。

なんとなくの気分かもしれませんが、

「雨水」に入ってからというもの、

文字通り「雨模様」が多くなったような。。


「雨」の受け取り方については、前々回の【初候】にてまとめました。

そして、あっという間に【次候】も過ぎ去り、

本日より【末候】に入ります!


草木萌動(そうもくめばえいづる)


しだいにやわらぐ陽光の下、草木が芽吹き出すころ。
冬の間に蓄えていた生命の息吹が外へ現われはじめる季節。
(新暦では、およそ三月一日〜四日ごろ)

『日本の七十二候を楽しむー旧暦のある暮らしー』より

草木が芽吹く。芽生える。萌え出る。

『万葉集』の中の傑作


ここですぐさま思い浮かぶのは『万葉集』の中のこの一首。

(遥か以前の記事でも取り上げましたが、体裁を整えて再掲します)

石走る垂水の上のさわらびの 萌え出づる春になりにけるかも 志貴皇子

【現代語訳】
岩の上をほとばしる滝のほとりのさ蕨が萌え出る春に、ああなったことだ。

※新春の賀宴に祝意を述べる趣で題詠された歌。

『万葉集』巻第八・1418番

さらに、この歌の解説を別の本から引用いたします。m(_ _)m

志貴皇子の灌(よろこ)びの歌である。一首の意は、巌の面を音たてて流れおつる、滝のほとりには、もう蕨が萌え出づる春になった、灌ばしい、というのである。「石激(はし)る」は「垂水」の枕詞として用いているが、意味の分かっているもので、形状言の形式化・様式化・純化せられたものと看做し得る。「垂水」は垂る水で、余り大きくない滝と解釈してよいようである。「垂水の上」の「上」は、ほとりというぐらいの意に取ってよいが、滝下より滝上の感じである。この初句は、「石激」で旧訓イハソソグであったのを、考でイハバシルと訓んだ。
(中略)
この歌は、志貴皇子の他の御歌(※皇后、皇子、皇女の歌)同様、歌調が明朗・直線的であって、然かも平板に堕ることなく、細かい顫動(せんどう)を伴いつつ荘重なる一首となっているのである。御灌びの心が即ち、「さ蕨の萌えいづる春になりにけるかも」という一気に歌いあげられた句に象徴されているのであり、小滝のほとりの蕨に主眼をとどめられたのは、感覚が極めて新鮮だからである。この「けるかも」と一気に詠みくだされたのも、容易なるが如くにして決して容易なわざではない。(中略)万葉の「なりにけるかも」の例は実に敬服すべきものなので、煩をいとわず書抜いて置いた。そして此等の中にあっても志貴皇子の御歌は特にその感情を伝えているようにおもえるのである。此御歌は皇子の御作中でも優れており、万葉集中の傑作の一つだと謂っていいようである。

斎藤茂吉『万葉秀歌』より


再掲は何度でも行うことに躊躇わないのは、

詩人・八木重吉の以下の言葉に凝縮されている意味合いからです。m(_ _)m

よいことばであるなら、ふたゝびいふにためらふな。
いつまでもくりかへすのにおそれるな

詩人・八木重吉のことば


本来は般若心経などのお経や、神道における祝詞なども、

良い言葉であるから繰り返し声に出して唱えたりして、

骨身に染みるまで身体に響かせて味わう姿勢があるわけですね。


さて、明日から三月「弥生」を迎えます。

特に二月は実際問題で短いだけあって、過ぎるのはあっという間でしたね。

時は金なり」というより「無価(むげ)の宝」であると習いました。

大切な時を噛み締めつつ、果敢にチャレンジを続けて参ります!!(^O^)

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