見出し画像

いま振り返る、シンエヴァンゲリオンの『シン』の意味。


ツイッターで、
エルシャダイという言葉が
トレンドに上がっていた

なんでエルシャダイが?
て思ったけど、ゲームだった。


エルシャダイは、
「生ける全能の神」も意味するけども、、

実は、ヘブライ語で、
「シン(ש)」という文字で表される。



そもそも、
エヴァンゲリオンが
ヘブライ語由来なのなら、
シンもヘブライ語由来なの
じゃなかろうか

そうしたら、

シン・エヴァンゲリオンは、

生ける全能の神の福音
(シン・エウアンゲリオン)

という意味
にもなりうる。

シンの文字はエルサレムの旧市街を
表しているとも言われており、
父と母と子の三位一体を意味している。


画像検索で出てきた(旧約聖書の地)エルサレム



もっと深い意味もある



‎上の画像が
分かりやすかったけども、

シン(ש)は、
生命の木の3つの球を繋いだ形をしている。

‎ケテル、
ビナー、
コクマー。

‎そしてその仲介を成す、
ヒトと神的なものの間の存在
(ティファレット)

エヴァンゲリオンは、

父なる象徴、
母なる象徴、
子なる象徴

に監督が
自分の中の

父なる衝動、
母なる衝動(あるいは重ねるもの)、
子なる衝動

を重ねた儀式だったのかもしれない。

あるいは、神秘に重ね、利用して
自分の答えを理解しようとした
ゲンドウそのもの。
だったかもしれないし

それ、そのものも入れ込んだ
オリジナルの儀式(アディショナル)であり
自分との葛藤だったのかもしれない


これは、根本的な問いだし、
見ている人もそれぞれ、
無意識にキャラクターを通して
重ねていたのかもしれない。


‎しかし、もっと深い意味は、
‎こういうエンタメ要素じゃないと思う。

‎こういう追い方をすると、
‎点と点を繋ぐことしかできない。

たとえば、この物語は、
ここと、ここの、元ネタがあり、
この要素で出来てますよエヴァは(えっへん)
というように。

それは、
例えるならスポーツやったことない人が
その競技を、外からみた推論のみで
結論づけることかもしれない

それには決定的な経験と
そこである色んなことを
通っていない。

‎それは、神秘に触れえない。

エンタメ要素の満足で
満ちるのは、
他人の称賛が欲しい知的な領域
においてかもしれない。

そこから先に
監督も踏み込んだのでは
ないだろうか?

もし仮に、

『すでに知られた体系を
知的に理解し、
そのまま提示するだけ』

ならば、
葛藤はそんなにないのではないか?


資料はそろってるのに

(労力いがいの)
なぜ、膨大な葛藤が
必要だったのだろう?

それは、実際に自分自身として
誠実に、それ自身と
対峙したからかもしれない

漫画のナウシカの最後も
人間の知との対決のようなものが
あったように

ナウシカの巨神兵。ほぼエヴァの中身


その続きに挑んだのでは
ないだろうか?

それは、
旧約聖書などに重ねられた、

人間が人間に求めた
神秘主義との対決(新世紀つくるぞ)
が、あったかもしれない

(ちなみに、
自身は必ずしも
そのやり方に同意しないけども)


エヴァンゲリオンには、
聖書(死海文書)への理解が
多様に表現されている。

アダムとイヴ(エヴァ)なども
そうだけど

たしか、
アダムとリリスを
白き月、黒き月から
生まれたなどと表現されている。

(旧約聖書への挑戦だったかは
知らないけれど)


カバラという
西洋な密教の教えの中では、
旧約聖書への深い理解がなされている。

エヴァは、その教えが
モチーフになってると思われるが、

生命の木が重要視され、
その生命の木の一番上に

「白」と「黒」の玉の合体を
アダムカドモン(神人であり光の巨人)
というような表現してあると
いう風にも見れる。


カバラってなに?というと

カバラは、
「受け取った」という意味がある。


それは、
旧約聖書の真の意味を
読み解いている。


(※ちなみにアニメに出てくる死海文書は
ヘブライ語聖書の最古の写本。
読み解き人のゼーレとかが出てくる。

聖書への理解は、人間の神的道において
重要だという設定だったのだろう。)

カバラは、
聖書に精通しており、
細かく言えば、


●人間的性質(知)、

●動物的性質(肉体に根ざした)、

●それを越えたもの
→霊的 & 神的に浸透するものの性質

の関係性について
探究したのだと思う。


そして、
カバラでは、

●直接的な経験(ダート)を得ること と、

●知的な理解
(人間が行う順序立てと、
推論による体系の理解)

の違いも示した。


主に神学者たちが
夢中になったのは、

おそらくこの
「人間的知」という
区ぎられた能力において、
並べ替えて、

その体系を見て

「何がどうなってるかを理解できるか?」

だったんじゃないかと思う。


興味深いのは、
カバラの文献によれば、


「その中の誰一人として、
真実に到達し得なかった。

(アダムカドモンを理解できなかった)」

と記していること。


これは
「知能の足りなさ」
を意味していない

知では、到達できない
といいたいのだ。


カバラが
釘を刺しているのは、
それはまさに、別の意味での
「知る」を示そうとしたのだと思う。


一般的な、
知るという
人間的な知覚である

「区分わけと理解に関すること」と、

「直接的な知」
(後ほど触れる、神との直接接触)

には違いがあると。

それを「知」と
呼んでいいかはわからない。


(エンタメを除外すれば、
それは直接的な遍在だったと思う。)


あんまり深く分け入っては、
アレなので、話を戻せば

ゲンドウの人類補完計画

(ニンゲンがカタチを持たない事で、
ひとつになれば葛藤もない)

は、あまりに知的な理解であり、
また、「知的な区分の能力」が好きな、
落ち着くべき場所の到達地点
だろうと思う


それは、
無知がその器を満たして
満足するための道筋として
答えになりうるけども、
浅い理解だったのだと思う。


カバラでは、
旧約聖書への理解は
読んで内容を知的に理解するだけでなく
全部で、四つあるとされている

忘れたけども、
最後にくるのは、
〈神との直接接触〉だった思う。


それは、
旧約聖書に精通したラビ(祭祀)さえ
触れ得ない〈秘密のなかの秘密の教え〉
カバラだった。


アニメの中ではなく、
カバラそのものに照らし合わせれば、

ゼーレもまた、
真に神秘的な理解を象徴した姿としては
描かれていない。


自分は、監督さんが
例えるなら、
前世はカバラを探究するカバリスト
であったんじゃね?

と疑ってさえいるが

今回は、
その体系全体を否定するなかで

(知らずとも)神秘の側面に
足を踏み込んだ
といえるのではないかと思っている。


正確に言えば、
それは、答えをなぞる旅ではなく、

ニンゲンというものが
なんであるか?

の本質的な
一対一の問いだったかもしれない。


神ゴロシという
物騒な単語が飛び交ったのは、

おそらく、
10の球からなる(殲滅対象の10使徒?)
生命の木への体系への否定も
あったのではないかと推測している。

ちなみにアニメオープニングや
旧劇場版や、新劇の貯水地などにも
生命の木は描かれている




もしかしたら、
新しい福音として
シンに、
新の意味を被せたのかもしれない。

それは、
旧約聖書の体系の
面白さに驚嘆しつつ

それから離れて
答えを出そうとした葛藤という
巨大な闘いがあったのかもしれない。


そして、

アダムとエヴァ(イヴ)の
旧約聖書の物語を
スタンダードに取り入れつつ
視聴者の内面へ深く迫る構図に
なっていたかと思う。


新劇場版は、4体のアダムが
出てくるけども

アダムス


生命の木は、
カバラの密教的な理解のなかで
実は4本あり、
4体のアダムがいる。

それは、
神話のはじまりに
人間としての肉体のアダム
(みんなのイメージする最初の人間)

があるならば、

楽園にいた時の
動物の毛皮(肉体)をまとっていない
アダムがいるだろうと。

つまり、それが
魂のアダム。


これは、
聖書の言葉、

「汝は呼ばれ(神性)、
創造され(霊)、
形造られ(魂)、
形作られたり(身体)」

に対応しており、
四つの生命の木になっている。

詳しくは、省くけど、
ニンゲンは、四つのゾーンを
駆け上がり、進化しながら

巨大なヒト(光の巨人)に
見立てた
アダムカドモンと合一するという話


それで、
たしか霊的アダムは、
両性具有であって
その意味は、男と女が2つに分かれる前の
姿を意味している。

(旧劇場版では、
巨大なアヤナミとカオルが
1つのカラダに生えていた)


それも面白いんだけども、
話を戻すと、
さらに面白いのは、
エヴァの4体のアダムってよく見ると


ウルトラマンなんだよね
監督が好きな。

詳しい人が書いてたけど、
カラータイマーと特徴から
それぞれのウルトラマンなんだと。

これは、
監督がウルトラマンやら
頼りにしていた
想い出を儀式にして

すべて捨てる覚悟で
未知に賭けようとした結果
なのかもしれない。


新しい福音は、
自分にとってのヒーロー
(アダムに模すくらい重要な位置を占める)
ウルトラマンではなく

それすら、捨てて
儀式(人類の神秘学のメソッドにのっとり)
に使い、

偶像(心の中のイマジナリー)ではなく、

私たちが歩く道(未知)なんだ!と

最後、実写の世界に
駆け出した私たちなのかもしれない。


しかし、非常に面白いのは、

人間の神話に本質を重視させるのでもなく、
父や母の想いはありがたく受け取り、
心の中のヒーロー(イマジナリーやウルトラマン)でもなく

日常に落とし込めた
ことを

それぞれの神話を歩くことを
新しい福音としたかもしれない
ことだったのだと思う。


しかし、反転さらに面白いのは、
時代を駆けて、この呪術というか

神話、個人の父や母、
心の中のヒーローや
偶像というイマジナリー

が存在しており、
私たちは、それを通して
現実を現実だと思い

巨大なフィルターを
人類史だと思っている

この巨大なフィルターの
外に出ると

新しい神話が創造されうるだろう
という可能性も示しているのかもしれない

しかし、そこには優しさがあり、
この巨大なフィルターにも理解と許容を
もって、拒絶せずに調和していることだ

ATフィールドによる
拒絶に満ち満ちたものを
時代というフィルターを、
拒絶ではない

やや調和したカタチに
落ち着けてあるように見えたからだ。



しかし、まさかの
さらに反転、
ここから面白いのは、

ちょっと我慢して
聞いて欲しいんだけども、、


監督が知ってるかは
知らないが

真の神秘においては、
つまりカバラが目指したものは
おそらく、物語ではなくて

ある覚醒者における
超越的な体験に基づく
エッセイのようなものであったのでは
ないかということだ。

それは、負の遺産ではなく
希望の光だった。


それは、カバラが微かに
記したかったことで言えば、

個人の推測だが、
ヘブライの神ヤハウェの名とされているものは
エヘイエー・アシェール・エヘイエー
であり、

意味は、
I am that I amだ。

これは、
在りて在るもの と訳されたりするが

おそらく、
本当の意味をわかっていない

本当の意味は、

私たちに超越的に浸透する性質である
I AM は、
THATというこの世界を経験し、
また、I amに帰っていく

という性質を表しており、
そのすべてが神であるとき、
創造物の中に入り、帰ってゆく

この生命の川を
アダムカドモンとして
見ているということだ。


なにが興味深いかと言えば、
本当の神秘そのものは、
教義ではなく

時代とぶつからないものであり、
みんなが思う教義的な部分の
妄想ストーリーなどではなく

それを
遍在というカタチで
体験した

多くの神秘家に
根づいているということであり

彼らは、
分離された個人として世界を観るときの
世界観に根ざしておらず

すべてがいいバランスで
調和した、個人ではなく遍在として
それを「識った」ということだ


世界は、
分離されたフィルターから観れば、
すべてがバラバラであり
個人も他人もすべてバラバラ

それに根ざした世界観からは
バラバラの世界観があり

分離を超越した性質として
気づいた個人は、
バラバラの世界などないのだ

もちろん、
バラバラの世界のフィルターの
人々たちにおけるバラバラの世界は
創造されている

しかし、それを越えて
バラバラなどあったためしがないのだ
ヒトというフィルター無しに見れば


すると、自分には
こう見えるっていう
個人の感想でしかないけども

父や母や、人類の神話や、歴史や、
ヒーローや、偶像や、イマジナリー

のすべては、

いったんは、拒絶し、
いったんは、踏み込み、
それを廃して新しい福音を
生み出そうとしている
かもなのだけども


そのすべては、
受け入れられ、
父も母も理解し、

すべてのエヴァンゲリオンにも
さようなら

と哀愁と感謝したのだけれど


最後に、
落ち着く場所が日常だった。


神秘家も
戻る場所というニュアンスでは
日常であり、まさに同じだった
ように感じたということだ

歴史にいた神秘家は、
人類をバラバラにするための
思想を作ったのではない

むしろ、真に
わかちがたい一体感を味わった上での
新しい福音だった

それは、
後世にストーリーとなってしまった

なにを言いたいかといえば
神秘の正着があるとすれば 
その筋にまさに降り立ったかの
ように見えるし

なんとなく行間を読んで欲しいけれど、
一筋の光(アディショナル)こそ 

本当は、最初から行われた
というか起こった光だった

と個人的に思えることだ。

年末に長文で
なんともいえない着地になって
スマない。

しかし、

「あ、この暖かい場所は、
一緒や!
おー!あったかい正着だ!」

だと思ったところに
神話に被せられることもあったりする
神秘家たちと
同じ想いを感じたところが

パラドックス的で
本当に面白いと感じた部分だった


知らないけども、
知らずとも、
その道に乗れる

なぜならば、
知っているというストーリーを
使ってフィルターを用いて
バラバラの歴史を紡ぐのではなく

真の静かな自己(I AM)においては、
すべては、調和し、浸透していることを

学位論文のように
歴史上の神秘家たちが

思想ではなく、
宗教ではなく、
神ではなく、

体験をもって
記してきたからだ。



---------------------------

※追記

なんとなく、ざっくりだったので
生命の木や、アダムカドモンなど
モヤモヤする部分が残ったと思いますが

細かいところは、
昔書いたピンポイントな内容を
次の記事とかで、
アップしたりしようかなと考えております。


自分でも信じられないけども、
この長文の後に
感想の動画を紹介するのは
正直、気が触れてるとさえ
思われかねないですが

私によく似た声のエヴァの感想が
YouTubeにアップされているので

正月気分で暇な人もいるでしょうから、
当時を思い出して
良かったら聞いてみてください。


※ネブカドネザルの鍵🔑もあるよ


★エヴァと共に時代を生きた
30代男性の感想


★オマケ
「カバラそのもの」についてのまとめ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?