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雑記:修士論文に困っている

2023年、25歳を迎えようとしている今、僕は大学院生の修士課程に所属している。

所属しているのは「農学生命科学研究科農業資源経済学専攻農業史研究室」
長ったらしいが、

農学部の院で、

農業経済という文系の専攻で、

その中で歴史について取り扱える研究室にいる

と言った感じだ。

その研究室で2年目を迎え、今年の冬には修士論文を書き上げなければいけない。


しかし、今、進捗はよろしくはない。


時間が割けていない、自分で学費を払うようになってバイトの比率が増している、和歌山での滞在で資料へのアクセスが限られている、原因はいくらでもあるが、そこは自分次第でどうにかなる部分であり、大きな課題は別にある。

それはすごくシンプルで、

「何を明らかにしたいのかがはっきりしていない」

ということだ。
もしこの文章を読まれた研究者の方は天を見上げて頭を抱えるかもしれない。私はこの課題になかなか蹴りをつけられない。

「新しい発明をしたい」「データを元に今まで着目してこなかったある現象を説明できるようにしたい」研究者は必ず「何を明らかにするのか?」を見つけ、そこに向けて「過去にどんな研究が行われてきたのか」「そこで何が明らかにされていて、何がまだ明らかになっていないのか」をはっきりとさせていく、最初の出発点がぐらつけば何もかもが崩れていく。
ただ論文を読めばいいわけではない。

僕は修士の1年目は三尾の土地利用の変遷をまとめてみた。田んぼだった土地が、畑に変わり、宅地に変わり、その変遷は非常に興味深かった。しかし、その先に「何が明らかになるか」はなかった。

地域の人への聞き取り調査もした。地域の昔の姿、カナダに移民するか否かの葛藤、昔は嗜んでいた食べ物やら遊び、こちらも興味深い話だった。だが、「何を明らかにしたいのか」は見えてこないし、あえて見つけずにたくさん話を聞いていたまである。

何をどうやって明らかにするのか?何を明らかにしたら学術的に◯なのか?先行研究を読む中で、ニッチな専門分野に来てしまったなという気持ちにもなる。

理系の専攻であれば、先輩たちがやってきた研究にどのような形で自分の色を載せるかという観点になる。経済系であればデータをひたすら収集して、特筆的な特徴を探ることもできる。ただ、歴史研究はひたすら拾い集めてきたものと睨めっこする状況に陥りやすいような気がする。

自分がわかりやすいデータを使っていない、わかりやすい先行研究を使っていないこともこの状況をさらに追い込んでしまっている。

そんな中で、自分は改めて何をしたいのかを求められる時期になっている。

僕は素朴に、地域の歴史を残して、次世代に継承させたい。そこに自分の解釈や狙いを入れたくない、ひたすら収集したいという気持ちに駆り立てられていることも確かである。

研究者も自分のテーマでないことには手を伸ばすことはできない(するべきでない)。体のメスの入れ方を習得のが医者なのだとしたら、そのメスや情報をかき集める人も必要なのではないか?

前々から気づいていた。自分がやりたいことは新しい発見をするのではなく、今までの積み重ねを集めて、噛み砕いて広く伝えたいのだ。このノートでも、経済学者のコラムを雑にまとめた記事が2,3本残されているし、地域でライフヒストリーの展示をまとめているが、まさにこんな感じのことをやりたいのだろう。

その場合、
先行研究⇨課題設定⇨作業仮説⇨検証 
の論文執筆が経由するサイクルを僕が歩み切れるかは大変疑問だ。

しかし、私は修士を辞めたくない。論文を書くという作法が、自分が成し遂げるべきことだと信じているからである。

やっぱり、かつて先人たちが取り組んできた研究を多々収集し、そこに描かれなかった限界、そこになかった世界観を見たい。実際にただ集めるのではなく、「何かを明らかにするために」情報を集めることは重要な観点だし、頭の使い方も大分違う。

1人の老婆の言葉をただ録音するのと、その言葉から今までに明らかになっていなかった事実を明確にすることとでは考える深度が大違いである。この考える深度の有無は日々の生活でも安易に情報に流されたり、ふと考えに浸る際に口先だけで浅はかに終わったりしないためには必須のスキルだと思っている。

例えば、「日系カナダ移民で人々の生活にどんな変化が生まれたのか」という問いは全然クリティカルではない。「日系カナダ移民が現地で漁業を営んでいたが、そこでの社会的地位は、今まで思われていたほど相対的に低かったとは言い切れず、むしろ技能の高さから重宝されていたのではないか?」というレベルまで「変化」や「日系カナダ人の〜」を深めていかなければいけない。その深める作業と僕は向き合いたいのだ。

そんな理由もあるが、1番の理由はおばあちゃんと修士を卒業することを約束したからだ。自分が和歌山に移住する時に、最初は反対し、今のままではいけないと諭してくれたおばあちゃん。久しぶりに会いに行ったら「顔つき見てわかった。あんたは頑張ってる」と激励してくれた。今でも僕のことをずっと応援してくれている。
そんなおばあちゃんから、自分の本分だけは見失うなと釘を刺してもらっている。

これに関しては完全に僕の個人的な感情だ。ここで中退したところでおばあちゃんとの縁は切れないのかもしれないし、目的と手段がごっちゃになっている気もするが、なんとなく、今回のおばあちゃんとの約束は何としてでも守りたい気持ちになる。

本当は休学をするのも手なのだと思うが、これからさらに地域での活動が増えてくる中で、後回しにしたところでよくないとも思っている。

秋は覚悟を決めて、何を明らかにするのかを決めきって走り切ることを目指します。修論書き切るぞ!!

もし琴線に触れることがあれば。最低金額以上は入れないでください。多くの人に読んでもらえれば嬉しいです