交渉人


 立て籠り事件が発生した。現場はアメリカの田舎町。犯人の男は廃ビリヤード店の屋上に、人質三人と立て籠っている。
 
 この現場に駆けつけたのがFBIの敏腕交渉人A。Aは持ち前の巧みな話術で、人質を一人また一人と解放し、遂に人質は最後の一人になった。
 順調かに見える交渉。しかし、Aはあるピンチに陥っていた。
 
 Aは催していた。とにかくウンコが漏れそうなのだ。
 
 だが、ここはよりにもよって酪農地帯。辺りにはトイレはおろか建物すらない。広漠とした草原に茂みと背の低い木々が点在し、その先に牧場がいくつか見えるだけだ。
 
 とはいえ、これらの牧場までなら車でおよそ二分。我慢すれば何とかなる距離なのだが、エリート街道を驀進してきたAは、田舎の警察相手に「……ウンコがしたいです」の一言が言えなかった。プライドが許さなかったのだ。
 
 それ故、Aはやむを得ず犯人に「お互い考える時間を作ろう」と伝えて交渉を中断した。
 
「射殺ですか?」
 髭を蓄えた恰幅のいい中年男が、Aに聞いた。この男は現場の指揮官なのだが、FBIから派遣された偉丈夫のAに及び腰で、実質的な指揮権はAにあった。
 
「いや、人命優先だ。それにしても今回は手強い、少々散歩でもさせていただく」
 Aが深刻な面持ちで言った。現場に緊張が走る。誰もが、事態は相当に差し迫っているのだと感じた。
 
 が、当のAはウンコが漏れそうなだけだ。
 
 Aは下っ端警官にさりげなく借りたティッシュを靡かせ、歩くこと五分、一番近い茂み到達した。
 快晴の空の下、万が一にも報道ヘリに映り込まぬよう、草葉の陰に身を隠して揚々とベルトを緩める。
 
 ところが、このタイミングで指揮官から無線が入った。犯人がAと話したいと言うのだ。しかも、三分以内に戻ってこなければ人質を殺すとまで言っている。
 
 ウンコか人質の命か――。
 
 迷うAを走らせたのは『誰も傷付けず事件を解決する』という彼の節義だった。
 
 現場に戻ったAはズンズンと陣頭に向かって歩いていく。息は荒く眉間に皺を寄せ、今にも怒鳴り出しそうなAの形相に、指揮官たちは思わず息を呑んだ。誰もAのウンコが漏れそう等とは思っていない。Aは陣頭に着くと、指揮官からメガホンを借りて話し始めた。
 
「待たせてすまない、僕も君と話したいと思っていたところだ。出来れば二人だけでね」
 Aは言葉共に手持ちの銃を捨てた。次に指揮官たちに銃器の射程圏外まで退くよう命じた。
 
 言われるがまま、射程圏外まで退がる指揮官たち。彼らはスコープ越しにAを見つめる。一人、熱心に交渉をするA。五分程すると、Aは悠々と廃ビリヤード店に入っていった。
 
「信じられん、一人で行きやがった」
 誰もが指揮官の言葉に驚嘆し、Aを真の漢、正義の化身と褒めちぎった。
 
 が、当のAはめちゃくちゃウンコが漏れそうなだけだ。
 
 すべては犯人の男に害意ないとアピールし、人質の救出と排便の両方を成す為。Aは駆け足で廃ビリヤード店のトイレに入り、個室の扉を力任せに開けた。
 
 Aは目を疑った。
 
 トイレの穴がセメントで埋められているのだ。これではウンコができない。Aとしては野糞という選択肢もあったが、借りたティッシュは手汗でグショグショ、使えない。
 
 一応、Aのポケットにはシロクマさんのハンカチがあるのだが、これはAが一人娘からもらった大切なプレゼント。Aは迷いに迷ったが、とうとう使うことができなかった。
 
「クソッ!」
 Aが叫んだ。刹那、Aは何かを閃き、指揮官に無線を飛ばした。
「私だ。今から言うものを至急用意して欲しい。まずはマスコミのヘリ、それから――」
 Aは指揮官にプランを告げると、シロクマさんのハンカチを洗面台に置き、犯人の男がいる屋上に向かった。
 
 屋上では、犯人の男が人質のこめかみに銃を突きつけ、Aを待ち構えていた。Aは犯人を刺激しないよう、両手を挙げてゆっくり近づいていく。すると、犯人の男はおろか、人質の顔までも恐怖に染まっていく。
 
 原因は明白、Aの形相だ。目は血走って顔は赤黒く変色し、顔面中の血管が蠢く悪魔的な形相になっていた。
 
 もちろん、Aはウンコが漏れそうなだけだ。もう、激烈に漏れそうだった。

だが、そんなことを知る由もない犯人の男は「来るな!」と叫び、人質のこめかみに拳銃を押し付た。人質の表情が歪む。
 
 「待って、落ち着いて。落ち着いてくれ」
 Aはそう言いながら立ち止まった。犯人の男までの距離は三メートル程に縮まっている。
 
 「落ち着いてくれ。いいかい? 下でも話したが、私には君の娘さんを助けるプランがある。何より、君と同じ父親として話をしにきた。そうだ、名前を聞いてなかった。よかったら教えてくれないか?」
 
「…………ベンだ」
 犯人の男改め、ベンが答えた。
 
「ありがとう、ベン。それで娘さんの病気の件なんだが、まず君の気持ちは……」

「黙れ!さっさと娘を、シリーを助けるプランとやらを教えやがれ!臓物ごとぶち撒けるぞ!!」
 ベンが引き金を引こうと力をいれた。
 
「ベン、待て!お願いだ、それだけはやめてくれ」
 Aは腹を抑え右手を前に出し、必死の形相でベンに落ち着くよう促す。

 「クラウドファウンディングだよ、ベン。今から私のスマートフォンを君に渡す。君は一度タップするだけでいい。ただその前に頼みがある。彼を解放してやってくれ」

「……」
 ベンが沈黙した。張り詰めた静けさの中、プロペラ音だけが徐々に大きくなっていく。Aが要請した報道ヘリだ。

 足に大きな土嚢袋をぶら下げた報道ヘリが、上空、ベンの背後から近づいている。ヘリの中には指揮官が小型の起爆装置を握っており、Aの合図を今か今かと待ち構えている。
 
「……分かった。行ってくれ、すまなかった」
 ベンが人質を解放した。人質はAの脇を走り去って屋上から出て行った。
 
「ありがとう、ベン」
 Aはベンに礼を言うと、片膝をついてスマートフォンを地面に滑らせた。
 
 これが合図だった。指揮官が起爆装置を押すと、爆発音と共に大きな袋が真っ二つに裂け、茶黒い物体が俄雨の如く降り注いだ。
 
 牧場の糞だ。
 
 Aは指揮官に近場の牧場からありったけの糞を集めるよう指示していた。これを上空から散布してベンの動揺を誘い、その隙に制圧するプランだった。
 
 加えて頭脳明晰なAは、自分も周りもウンコまみれになってしまえば、制圧時にウンコを漏らしてもバレないことまでも頭に入れていた。
 
「何だこれ、クセェ!」

 Aの目論見通り、ベンが糞の雨に狼狽えた。 Aはその隙を逃さず、脱糞しながら猛然とベンにタックル。ウンコまみれになりながらベンを無力化し、見事、排便を済ませ、事件も解決に導いた。
 
 後日、事件の一部始終はマスコミに報道された。SNSでも瞬く間に拡散され、Aは「#CRAP COP」として世界中に知られることになってしまった。
 
 だが、これはAの自作自演だった。Aは自身に足がつかぬようにしながら、事件の一部始終とベンの犯行動機をSNS上に拡散し『シリーを助けて!』というクラウドファウンディングに誘導した。

 その結果、一万ドルの目標金額はあっという間に集まり、シリーの命が救われたのだった。

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